HOME » トップインタビュー一覧 » トップインタビュー Vol.85 能楽師一噌流笛方 藤田 次郎さん
1 The Face トップインタビュー2015年01月20日号
能楽師一噌流笛方
藤田 次郎さん
能楽笛方では初の人間国宝となる藤田大五郎の次男として生を受けるも、笛をはじめたのは高校卒業後。大学受験に失敗したことがきっかけだった。1年間の猛特訓の末、東京藝術大学に進学。父親のネームバリューもあり、多くの素晴らしい師より稽古を受ける。以来、笛一筋で能を支えてきた一噌流笛方藤田次郎さんにお話をうかがった。
(インタビュー/津久井 美智江)
後継者育成に命をかけた、人間国宝の父は功労者だと思う。
—藤田家は能楽の笛方として長い歴史があるそうですね。
藤田 父大五郎が十代目で、兄朝太郎と私が十一代になります。家元でもなく、弟子家で何代も続いているのは珍しいので、それが父の自慢でした。
初代は藤兵衛(とうべえ)といって、徳川の時代が始まった頃に、武士をやめて町人になるべく弟と二人で越前から金沢に出てきたんです。過去帳に縫細工(ぬいざいく)と書いてあるので、加賀友禅とかの刺繍の仕事をしていたのでしょう。能の笛を始めたのは三代目で、今はなくなってしまった京都の平岩流の弟子となり、金沢城二の丸御殿で「石橋(しゃっきょう)」の獅子の笛を吹いたとあります。笛で獅子を吹くのは大変なことなんですが、素人がお城で吹いたというのですから、すごい人だったんだと思います。
一噌流となるのは、家名となる藤田多賀藏(たかぞう)を名乗る四代目、過去帳を書いた人ですが、その頃、江戸表で流行っているのは一噌流ということから、加賀藩のご隠居肥前守の後押しもあって、京都まで一噌流の笛の修行に出かけるのです。文化文政の頃のことで、このことは一噌宗家の記録にも残っています。
江戸に出て来たのが八代目多賀藏、大五郎の父親です。生まれは安政元年で、加賀藩お抱えの笛役者として参勤交代にも同道したようです。父は八代目の63歳の時の子どもなんです。だから父は八代目の50回忌までやりました。舞台で演能するんですけれど、あまり幸せなことではない。幼い頃に親が亡くなったということですから。
—父上から教わる時間が短かったと。
藤田 そうです。ただ、八代目は自分でも教えるけれど、家元がいるんだからそこでしっかり習いなさいということで、父は11歳から一噌又六郎に師事しました。
—それでも、10代の頃から逸材現るといわれ、55歳で笛方初の人間国宝になられました。
藤田 父は2005年に文化功労者にも選ばれていますが、故一噌幸政先生、十四世家元の一噌庸二先生、人間国宝で先日芸術院会員になられた一噌仙幸(ひさゆき)先生、そして私の兄朝太郎、私、さらにはうちの息子の貴寛(たかひろ)も育ててくれた。伝承することに責任感を持ち、後継者育成に命をかけた、本当に文化功労者だと思います。
一噌流の笛の特徴は、竹をすっぱり割ったような清々しさ。
—笛(能管)は、能の囃子方の中でどのような役割を果たしているのでしょう。
藤田 囃子方には、笛、小鼓、大鼓、太鼓があって、四拍子(しびょうし)といいます。太鼓が入らない場合もありますけれど、小鼓、大鼓、太鼓は調べがあるから一調(いっちょう)といい、笛は一管(いっかん)といって四拍子の中で唯一旋律が吹けるのが特徴です。
能管は、呂(りょ)という低音と甲(かん)という高音と幅広い音域の音が出るんですが、その特徴でもある3倍音の高音で吹かれる独特の旋律を「ヒシギ」といいます。ヒシギは太陽の光を表していて、悲しいとか嬉しいといった感情を超えたところにあるもの。だから、能はヒーヤーヒーと切り裂くような高音で吹かれるヒシギから始まるんです。
—確かに、あの甲高い笛の音で、一気に能の世界に引き込まれます。笛はどのように作られるのですか。
藤田 これは高校を出た時に父からもらった笛で、材料は竹です。どういう竹かといいますと、昔、囲炉裏の上に渡されて燻された、繊維の中に油煙がしみ込んだ「煤竹(すすだけ)」。それを茶筅のように割って裏返しにし、膠でくっつけて丸くしているんです。何故かというと、竹だから外側がつるつるしているでしょう。これを内側にして、そこに砥石をくだいて漆と一緒に塗ることで、中が石のようになる。そして、外側は籐とか桜とかでバラバラにならないように巻いてあります。
ヒビでも入ったら楽器としての生命を失ってしまいますから、とにかく長持ちするように、この能管には自分で漆を塗って直したりしました。
—ずいぶん丈夫に作られているんですね。
藤田 それでも壊れてくるんです。後に父が手に入れた頭金(かしらがね)に漢数字の一と書いてある「一文字(いちもんじ)」という笛がありますが、これは足利義政拝領といわれるものです。それぐらい生命力があるんですね。
構造は、吹くところを「歌口(うたぐち)」といって、歌口と一番高い音が出る「指穴(ゆびあな)」の間に「喉(のど)」という短い管が入っているのが特徴です。
笛は二つとして同じ物はなく、一管一管、音律も音色も異なるので、「唱歌(しょうが)」といって演奏をカタカナで記し、言葉のように旋律を唱えるんです。ですから、実際の「音高(おんこう)」が異なっても、例えば「ヲヒャーラー」という指使いで吹いた旋律なら、能舞台の他の各役の役者(シテ、ワキ、小鼓、大鼓、太鼓、狂言)も笛の音を唱歌に翻訳して聞き取っているんです。
この指の使い方を示すのが「指付ケ(ゆびつけ)」です。実際に演奏する際は指付ケが基本ですが、「指シ指(さしゆび)」という装飾音や、息の吹き込みなどにも工夫を凝らして個人個人がそれぞれの音色を生み出しています。
—一噌流の笛の特徴はどんなところでしょう。
藤田 竹をすっぱり割ったような、清々しいところです。「当(あ)たり」と「押(お)し」というんですが、シンコペーションが全部入っている。単純明快ですが、すごく近代的音楽なんです。それもあって一噌流が江戸表で流行ったのかもしれません。
能という世界があるおかげで、世界へとつながっていける。
—笛は小さい頃から習っていたのですか。
藤田 兄は小学校が終わるぐらいから始めましたが、私は兄がいたので高校を出てからです。社会科の先生になりたかったのですが、学生運動の真っただ中で、その年は入学試験がないだろうと思ってほとんど勉強していなかったので(笑)、当然ながら受からなかった。それで心配してくれたんでしょう、じゃあ、笛をやれと。翌日には唱歌集を渡され、張り盤を挟んで父と向き合い、稽古が始まりました。父の唱歌はなんでそんなにリズミカルなんだというのが初日に感じたことです。今も鮮明に覚えています。
—一大決心だったのではありませんか。
藤田 もし笛をやらないと言ったら、この家を出て行かなければならないと思いました。だから、翌年の東京藝術大学の受験までは遊びはなし、友達付き合いもしないことにしなさいと猛特訓です。
—藝大に入られたのですか。
藤田 試験官に親父がいたからね(笑)。その頃の先生は、小鼓は幸正影先生、大鼓は人間国宝の安福春雄先生、太鼓は観世元信先生、と、そうそうたる顔ぶれでした。そして個人的には人間国宝(金春流)の柿本豊次先生に太鼓を、生駒明弘先生に小鼓を習いに参りました。もちろん父も毎日教えてくれます、促成栽培をしなければいけませんから。
—それで今日まで笛方を務めてこられた。先生にとって能とは何ですか。
藤田 能は、うちの家業ではありますが、私にとっては父そのものです。笛方への道を開いてくれ、習うこともさせてくれ、そして息子の貴寛にまで教えてくれた。変な話ですけど、私が藤田大五郎の息子ということで、多少下手でも、能の世界に馴染めたと思うし、すべての面で守ってもらえたと思います。それに、笛方になっていなければ、ただの酔っ払いになってしまうから(笑)、誰も相手にしてくれなかったとも思います。
ただ、この世界に入ったのが遅かったからかもしれませんけど、狭い世界だなと感じるところもあるんです。私は次男で、区立の小学校、中学校、高校は都立で、国立の大学に行ったので、能楽師としては少数派だからそう感じるのかもしれませんけど、そういう時は外国に行きたいと思う。もっと開けた世界があるんじゃないか、そんなふうに感じます。でも、笛を吹いていることで、いろんな人と会えたり、いろんな国に行けたりもするんですけど……。
—能という狭い世界が、実は広い世界につながっているということですね。
藤田 そうです。実際に海外に行ってみると、日本とは異なる様々な体制の国があって、その中で皆一生懸命生きている。そういう姿を目の当たりにすると、私ももっと頑張ろうという気持ちにさせられるのです。
外国人はもちろんですが、今の若い人もそれほど能を知っているわけではありません。でも、これだけの世界が厳然として存在している。その能という世界があるからこそ、海の向こうにまで広がって行けるんです。欧米諸国をはじめチュニジア、フィリピン、オーストラリア、ブラジル、トルコ、ロシア、イランやカタール、イエメンといったイスラムの国々など、能のおかげで何度も外国に行く機会をいただきました。そこで実感するのは、世界は一つとはいいませんが、つながっていて、必ず分かり合えるということです。能楽の基本に流れている音楽にも同じことがいえます。正直、これは素晴らしいことだと思いました。
<プロフィール>
ふじた じろう
1952年、一噌流笛方藤田大五郎の次男として東京に生まれる。70年3月9日より父大五郎に師事。同年、舞囃子「班女(はんじょ)」で初舞台。71年、東京藝術大学邦楽科入学、75年、卒業。重要無形文化財総合指定保持者、日本能楽協会会員。東京藝術大学邦楽科笛講師、国立能楽堂講師。University of the Philippines Diliman客員芸術家
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