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1 The Face トップインタビュー2014年10月20日号

 
杉山スキー&スノースポーツスクール  代表
杉山 進さんさん
スキーは、愉しく、美しく、力強く。

杉山スキー&スノースポーツスクール 代表
 杉山 進さん

 長野県野沢温泉村に生れ、物心がつく頃よりスキーに親しみ、アルペンスキー選手として1956年、猪谷千春氏とともに第7回冬季オリンピック(イタリアのコルチナ・ダンペッツオ)に出場。選手生活引退後は、オーストリアに留学。日本人として初めてオーストリア国家検定スキー教師の資格を取得し、スキーは“自然との対話”であるとのポリシーを持って、多様なスノースポーツの指導と発展に情熱を注ぐ。今年50周年を迎えた杉山スキー&スノースポーツスクール代表、杉山 進さんにお話をうかがった。

(インタビュー/津久井 美智江)

スキーは単なる娯楽ではなく、自然に対する精神性があった

—野沢温泉のお生まれということですが、スキーの歴史は古いですよね。皆さんは基本的にスキーはなさるのでしょうか。

杉山 私は昭和7(1932)年生まれで、それこそ小学生の時は戦争前夜というか、戦争中という時期でしたが、小学校の体育の時間は、冬はスキーと決まっていました。午前中は学校で授業をして、お昼をうちで食べて午後はスキー場に集合する(笑)。

—当時、スキー場の環境は整っていたのですか?

第7回冬季オリンピック(イタリア/コルチナ・ダンペッツオ)開会式

第7回冬季オリンピック(イタリア/コルチナ・ダンペッツオ)開会式

杉山 レストランみたいなのが1軒あっただけで、リフトは1本もありませんでしたね。

 日本にスキーが入ったのは1911年ですが、私が小学生の頃は大学スキーの勃興期だったんです。野沢でインターカレッジが開催されたり、合宿の候補地にもなっていて、慶応、早稲田、明治、法政と全部宿屋が決まっていました。そんな環境でしたから、知らず知らずのうちにスキーをやるようになったんでしょうね。

—それでもオリンピックに出場するまでには相当な努力が要ったと思います。

杉山 小学校1~3年、4~6年を一緒にした学校のスキー大会があったんです。4年生の時に6年生が1位で私が2位になった。それがある種の快感というか、興味をもつきっかけだったのかなと今になって思いますね。

—わずか20、30年で、すごい浸透率ですね。

杉山 そうですね。当時のスキーは今と違って、競技が主体か、さもなければシールというスキーの滑走面にアザラシの皮を貼り付けて山を楽しむかだったんです。お弁当やお茶やお菓子を持って、カメラを持って、1日がかりで標高差1000メートルぐらいの山まで登って、そこを滑り下りてくる。山もスキーも単なる娯楽ではなく、山に神様がいるとか、山に対する敬意というか、ある意味、精神性というものが当時はあったと思います。ところがリフトなんてものができて、かなり変わってしまった。

—レジャーというよりもっと高尚な趣味というか。

杉山 ノルウェーにフリチョフ・ナンセンという人がいたんです。探検家であり学者であり、晩年は国連で難民の仕事をなさって、1922年にノーベル平和賞をもらっている人で、彼が残した言葉に、「スキーはすべてのスポーツの王様である」というのがあります。

 その日によって雪質も違う、天候も違う。そういう環境を楽しみながら粉雪を舞い上げて、木に当たらないように滑っていく爽快さ。スキーほど自然とのかかわりが深いスポーツはないんですね。

 

フォームを覚えるのを第一としたことが、スキーを停滞させた原因の一つ

滑降、回転、大回転にエントリー。写真は滑降競技

滑降、回転、大回転にエントリー。写真は滑降競技

—確かに、スキーは自然をいちばん近くに感じられるスポーツだと思います。

杉山 日本の戦後のスキーというのは、日本人の持って生まれたDNAなのかもしれませんけれども、フォームを覚えるのが第一みたいな、そういう方向に傾いてしまったと強く感じます。

—「スキー道」みたいな?

杉山 「道」ならまだいいんですよ。柔道でも礼に始まって礼に終わるみたいなね、精神性がありますから。

 ところが、戦後のスキーは、踏み固めた凸凹のないきれいな斜面で3回転か4回転やって、今のは膝が曲がってない、今度は足首がだめだとか、単にフォームをきれいに滑ることがスキーの目的のようになってしまった。残念なことですが、フォームを覚えるのが第一というふうにしてしまったことが、スキーを停滞させた原因の一つだと思います。

 私は1962年から64年までオーストリアはチロル州、サンクトクリスト国立スキー学校でステファン・クルッケンハウザー教授のもとスキー教師になるための勉強をしました。そこで学んだのは、単にスキーの技術、指導法だけではなく、雪山の自然の厳しさと、いかに「楽しく」「安全に」「確実に」滑れるように指導をするかということでした。

 そうした理念を基に65年に志賀高原でスキースクールを開校しましたが、モットーは、スキーは「まず愉しく、そして美しく、さいごに力強く」。とにかくスキーは愉しいんだということをベースにして、その上で美しく、つまり基礎をきちんと習った正しいスキーで、力強く滑ることです。踏み固めた雪はもちろん、新雪でも深い雪でもあるいは少々凸凹があっても、その日の気象条件によって、例えば条件がよければパラレルで滑るけれども、条件が悪ければシュテムをして、とにかく安全に確実に山の上から下へ下りてくる。それがスキーの本来だと思っています。

今年50周年を迎えた杉山スキー&スノースポーツスクールでは今も指導を続けている

今年50周年を迎えた杉山スキー&スノースポーツスクールでは今も指導を続けている

—30年以上も前から歩くスキー、クロスカントリースキーの紹介を盛んにされていましたが、日本ではなかなか普及しませんね。

杉山 歩くスキーがヨーロッパにずっとあったのかと言うと、私がヨーロッパにいた60年代には実はなかったんです。ところが、70年代の初めにサンモリッツに行ったら何台もの乗用車がクロスカントリーのスキーを乗せていた。

 街に出てスキー学校の事務所に入ると、パンフレットがありましてね、スキー学校でクロスカントリーを教えているんです。実際に見に行ったら、けっこう盛んにやっている。それに刺激を受けて日本でもやろうとしたんですが、なかなかうまくいかなかった(苦笑)。

 クロスカントリーのコースを整備するためには、1台3000万円もするような雪上車が必要なんですが、ヨーロッパではコースを使うのは無料。それでもなぜやるかというと、天気がよければアルペンスキーをし、少し天気が悪ければクロスカントリーをやるという選択肢がないと、お客様からスキー場として選んでいただけないからなんです。だから、収入にならなくてもやる。

 ところが、日本はだめなんですね。エコノミックアニマルなんて言われる民族ですから、お金にならないと無理。これも国民性、その国のDNAみたいなものだろうと思いますね。

 

日本も見習うべき
スキー先進国の救急体制

—日本にはクロスカントリースキーにふさわしいところがたくさんありそうな気がするんですが。

杉山 日光と裏磐梯の辺りに少しありますが、要するにアルペンスキーができる環境じゃないからやってるという感じなんですね。

 ヨーロッパアルプスの周辺や北欧、カナダ、アメリカといったスキー先進国には、長距離クロスカントリースキー大会や、スイスのエンガディン・スキーマラソンなどがあり、それに参加している日本人は何人もいますが、国民的な流れにはなってきませんね。そういう意味で日本はなかなか頑なというか……。

 とは言いながら、不思議なことなんですけど、日本はスキーの情報の中でものすごく敏感なジャンルがあるんです。それは何かというと、技術と道具。技術と道具の新しいものは即日本に入ってきますが、最初に話したような精神的なものは入ってこないんですね。

—余暇に対する考え方の違いがベースにあるんでしょうね。何もしないために休むということができない。

杉山 先進国サミットにかかわっている国の中で、スキーがだめなのは日本だけですね。あとはみんないい状態でちゃんと設備投資ができています。

—ビジネスとしてちゃんと成立しているということですね。

杉山 去年の冬、かつて東側と言われた国である経験をしたんです。仲間とスキーに行ったんですが、一緒に行った70代の男性が雪の上で心臓発作を起こしてしまったんです。1週間病院に入院しただけで帰ってこられたんですけど、なぜ助かったかというと、救急体制のおかげなんですね。

 日本だったら、雪の上で心臓発作を起こしたら、パトロールがスノーボードに乗せて車の来るところまで行って、そこから救急車で運ぶでしょう。場合によってはヘリということもあるかもしれませんが、少なくともスキー場の斜面に下りるということはまず許されませんよね。

 ところが、東欧のその国では、なんと斜面に下りたんですよ、ヘリが。そのためにコースを全部閉鎖して、滑ってくる客を止めてね。そして医者を下ろして、処置している間はどこかへ行っていて、準備が整ったところにまたヘリが戻ってきて、患者を乗せて病院へ運んだんです。

クロスカントリースキーもいち早く紹介

クロスカントリースキーもいち早く紹介

—日本では考えられませんね。

杉山 そうなんです。スキーの普及率とか歴史的なことを言ったら、東欧の国は完全に後進国です。だけど救急体制に関しては、完全に先進国。日本は営業しているスキー場の斜面にスキーヤーを止めて、ヘリを降ろすなんて夢のまた夢です。

 もう一つよかったのは、その倒れた人がいた7、8人の日本人のグループに、現地のスキー教師がいたこと。現地のスキー教室だったものだから、すぐに携帯電話で連絡ができたんですね。

 なおかつラッキーなことに、グループの中にお医者さんが2人いたので、人口呼吸とかの処置もできた。ツアーの初日だったのですが、彼らが言うには、「杉山さん、1週間ありますから一緒に帰れますよ」。その日の夕方病院に運ばれて、案の定、一緒に帰ってきました。東欧でさえ、そこまでの体制ができているんです。すばらしいですよね。

 

杉山スキー&スノースポーツスクール  代表
杉山 進さんさん

撮影/木村 佳代子

<プロフィール>
すぎやま すすむ
1932年、長野県野沢温泉村に生れる。物心がつく頃よりスキーに親しみ、アルペンスキー選手として活躍。全日本スキー選手権、国体スキー等の回転、大回転、滑降での数々の優勝、入賞を遂げる。56年、第7回冬季オリンピック(イタリア/コルチナ・ダンペッツオ)日本代表に選ばれる。62年、オーストリアにスキー留学、サンクリストフ国立スキー学校に学び、64年、日本人として戦後初めてオーストリア国家検定スキー教師の資格を取得する。65年、志賀高原丸池に 杉山進スキースクールを開校。69年、奥志賀高原スキー場にスキースクールを開設。96~2009年、(公社)日本職業スキー教師協会[SIA]会長を歴任。

 

 

 

 

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