人材を育てる時は育つところに入れろ。
シニア世代を中心に圧倒的な人気を誇る「高倉町珈琲」。「すかいらーく」創業者の一人が、すかいらーくを解任されたのち、そのリベンジとしてつくった店だ。癒しを提供するという新しいコンセプトで改めて注目を集める外食産業のレジェンド、横川 竟さんにお話をうかがった。
メーカーが作ったものを売るんじゃない
消費者が求めているものをメーカーに作らせる
—高倉町珈琲の噂はかねがね聞いておりました。美味しくて居心地が良くて、いつも混んでいると。
横川 そう言っていただけるとうれしいです。僕がつくろうとしたのは、若い人というよりは、50歳から上の人たちがゆっくり楽しめる、癒しの店なんです。店の大きさや色調、テーブルやソファ、トイレなどいろいろこだわっていくうちに、BGMも大事だとビートルズにしました。
ビートルズが流行っている頃、僕は築地で一生懸命働いていましたので、あまり詳しくはないですが、特に60代の方はどっぷり浸かっていたんじゃないですかね。
—築地で働いていたということですが、何歳から何歳くらいまでですか。
横川 17歳から21歳の誕生日の前の日までです。その前にちょっと家具屋を手伝っていた時期があって、その家具屋が倒産したので、耐久消費財というものには限界があると思いました。 僕には商売しか進む道がなかったので、安全な道はなんだろうと考えると食べ物屋だったんですね。食べることは日々のことですから。
それで築地に行って、土下座に近いような形で採用してもらって、4年間は徒弟制度の下で修業しました。そこがすごくいい店で、商売のイロハを教えてもらいました。
僕はついていたんですね。良い店だから行ったのではなく、行ったら良かった。
—どんな教えだったのですか。
横川 会社は、儲かるからやるのではない。こういう人のためにこういうことをやりたいと、マーケットに合わせて何をやるのかを決めて、それを誰とやるかということです。集まった人間で何かをやろうとすると、自分たちの価値観をマーケットに押しつけてしまうんですね。やることが全く逆になるんです。
だからメーカーが作ったものを売るんじゃない、消費者が求めているものをメーカーに作らせろと厳しく仕込まれました。
この思想が、実はすかいらーくの供給システムの中にあって、店をたくさんつくることができた元になっているんです。
—すかいらーくは初めから兄弟4人でやるつもりだったのですか。
横川 みんなそれぞれでした。長男は時計の精工舎に勤め、次男は叔母の家に養子に出て農業を継ぎ、姉は叔母の家に手伝いに行っていて、僕は東京、弟は地元(長野)の高校に入っていました。その頃は食いぶちを稼ぐためにみんなあちこち散っていたんですね。
その後、高校を卒業した弟が東京の近郊に出てきて東急電鉄に勤めたんです。ある時、弟と会って「俺は将来、商売をやるぞ」と言ったら、弟も一緒にやると。じゃあ、お金を貯めようと貯金を始めました。1か月100円しか貯金ができませんでしたね。でも、その貯めるという行為が、店を持つことにつながったんですね。
最初の店は食品店です。開店寸前になって、養子に行っていた次兄が俺も一緒にやりたいと言って、オープンの時は3人でした。長男は資本だけ出して参加しないはずだったんですが、事情があって1年後に参加することになりました。
それぞれ店長になって4店展開していたんですが、スーパーのダイエーや西友が派手に動き始めたので、これじゃあ、やってもしょうがないと、黒字でしたが廃業したんです。
食べ物は地域の文化
アメリカの形に日本の心を入れた
—初めから順調だったわけではないのですね。
横川 はい。何をやりたいじゃない、とにかく日本一になりたかったんですよ。そのためには僕らがこれから始めても間に合う、新しい時代のビジネス、遅れている産業に進出することにしたんです。調べてみると飲み屋とレストランだということが分かったので、食品を扱ってきたこともあり、レストランに決めました。
日本中を歩きましたが、その頃は郊外にレストランはなく、駅前に食堂があるくらいでどうもしっくりこない。こんなことで日本一になれるかといったら、なれそうにない。それで昭和43年と44年に、それぞれが1週間くらいアメリカに行って、食べ歩いてきたんです。10年後には日本も今のアメリカくらいになるだろうから、今から準備しようと、45年にすかいらーく1号店を国立につくりました。
—アメリカっぽい郊外のレストランはとても新鮮でした。
横川 広々としたガラス張りの店、床はカーペット、駐車場を設けるなど、仕組みはアメリカをそのまま持ってきました。ただし、食べ物は地域の文化だと、メニューだけはアメリカの真似をしませんでした。アメリカの形に日本の心を入れて、味は日本流にしたんです。ハンバーグやピザ、有頭海老フライ、スパゲッティ、いわゆる日本の洋食ですね。これがすかいらーくの成功の秘訣です。
—それで念願の日本一になられて……。
横川 日本一になったので失敗したんですよ(笑)。
日本一になる前は、日本一になるための努力をみんながします。日本一になると怠けます。人間というのは満たされるとだめですね。
—ご自身でも怠けたと思われますか。
横川 怠けてはいませんが、気のゆるみが出るんですね。それにうぬぼれが出ます。初めはお客さまのために店はある、店のために本部があると言っていたのに、気がついたら売りたいものを売っているだけで、お客さまの意見を聞いていなかった。会社のための店であって、お客さまのための店ではなくなっていたんですね。
—それでだめになってしまわれた?
横川 だめにはなりませんでしたが、だめになると予測したので、もう一回消費者のための店をつくろうとグループ会社のジョナサンの社長になりました。すかいらーくが僕たちの思うようにならないなら、倒産寸前の店を良くするほうが夢があるでしょう。大きさの夢ではなく僕はクオリティの夢を持ったんです。3、4店を380店まで大きくして、株式公開もして、1日当たりの客数ではファミレスで1番にしました。
これで大丈夫と思って65歳で引退し、フードサービス協会の会長をやっていたら、すかいらーくがおかしくなったので戻らざるを得なかった。その後、株式を非公開にしてファンドが大株主になり、僕はいい店づくりに集中しようとしました。しかし、2年も経たない2008年、ファンドはコストを落とす話ばかりをするのです。それでは僕のやろうとしている店にならないと主張したら、即解任でした。バカにしていますよね。
商売は消費者との終わりなき戦い
死ぬまでこのビジネスにこだわる
—もうビジネスはいやだとは思わなかったのですか。
横川 逆ですよ。いい店をつくって、君たちのやっていることは間違いだ、安いだけではお客さまは喜ばない、将来はだめになるということを証明したいと思いました。そのために高倉町珈琲を始めたんです。
—今、全国に何店舗あるのですか。
横川 20店です。たくさんつくるつもりはありません。せいぜい1県に2店から3店、10万人から15万人に1店つくる感じです。
店はある広さがないとゆとりがないんですね。だから店を小さくして投資を抑えると良い店にならないんです。坪数だと80坪から100坪、席数だと80席から100席くらいがちょうど良いですね。
—スペースは借りているのですか?
横川 そうです。飲食業はフロービジネスですから、会社の資産は人だけです。
僕は、その人の運命を決めるのは入社した時の上司だと思っているんですね。すかいらーくをやっていた時、100人とか150人の新入社員を面接も含めてしばらく見て、1割くらいを将来有望とマークするんです。その人が育つか育たないかは上司です。会社じゃないんですよ。
だから、高倉町珈琲でも、「人材を育てる時は育つところに入れろ」と言っています。今度、教育店という店舗をつくって、そこで店長を育てることにするんですが、本部の立場を変えて店長の地位を上げる組織になります。給料も上げます。店長経営にするには、権限と収入と環境をつくってやることが大事なんですね。
それから、社員の独立制度を確立しよう考えています。
—フランチャイズのようなものですか。
横川 フランチャイズよりも、のれん分けよりももっと良いやり方です。
例えば、他のレストランで10年店長をやった人がうちへ来て、うちのフロアと厨房の研修を受けて店長になって、1年たったら申し込む資格が得られ、試験に合格すると2年目には独立できるという仕組みです。
よそのコーヒーチェーンにいて、独立したくて高倉町珈琲に入ってきた人で、今年3年目で試験を受けている人がいます。もし合格すればこの人は来年自分の店が持てます。
—高倉町珈琲を?
横川 高倉町珈琲の既存店を預けちゃうんです。ただで預けるわけではないんですが、資産は会社のままなので初期投資がいりませんし、もし独立して2年たって、本当にやりたい場合はその資産を買い取ることもできます。店長中心の経営ですから、直営にこだわらず、自分の店にしてあげようということです。自分の店ということになれば接客も良くなりますからね。
今まではお客さまを大事にしろという築地の教えが基本でしたが、僕はレストランは働く人が優遇されない限り、店は良くならないと思うんです。そういう世の中の欠点を補う仕組みが独立制度だろうと信じています。
—レストランビジネスで日本一になりました。そして今、新しいビジネズモデルを確立しようとしています。十分満足ですか。
横川 これで満足かと言うとね、たぶん満足はしないと思います。商売というのは終わりなき戦いなんです。消費者がこれで良いと言ったことはない。良いと言った次には、もっとと言うんです。そこに行き着くとまたもっととなる。消費者との競争です。消費者に勝てるように、求められたものに応えられるように、死ぬまでこのビジネスにこだわってやっていく。それでいいんだと思います。