目に見えない、音にもならない、
正しい“コミ”が一番大切です。
高安流大鼓方
柿原 崇志さん
大鼓の仕事は、楽屋の大火鉢に熾ったたっぷりの炭火で、1時間以上皮を焙じることから始まる。乾きに乾いた皮を、加減しながらきりきりと締め上げ、締め上げる。そうして初めてあのカーンと突き抜ける高音が出るのだ。そのまっすぐな音と気迫の掛け声で、現代能の世界を支えている高安流大鼓方、柿原崇志さんにお話をうかがった。
(インタビュー/津久井美智江)
高校卒業後、上京10日あまりで舞台へ。
喜びよりも不安のほうが大きかった。
―福岡県大牟田市のお生まれで、もともと大鼓方の家ではなかったそうですが、大鼓を始められたきっかけは。
柿原 親父が多趣味な人で、戦前から将棋、テニス、ビリヤード、謡曲、囃子などを嗜んでいたんですね。戦後、昭和23年頃から数年は、会社を休んで上京し、名人と謳われた大鼓方高安流の安福春雄先生の元で1カ月近く勉強させていただいたり、その後も内弟子のような感じで付いて回っていました。
結局、会社をリストラされたと言いますか、次第に能楽中心の生活になっていき、28年春に高安流大鼓の職分とさせていただいたのを機に、自宅で稽古を始めたんです。それで、私も大鼓に興味を持つようになり、中学の時に親父に稽古を願い出て入門しました。
―その時からプロになろうと思ってらしたのですか?
柿原 プロを意識したのは高校に入ってからですね。それから、本格的に謡を習いに行ったり、大鼓だけでなく、小鼓や太鼓、笛といった四拍子(しびょうし)の稽古もするようになりました。
―全部やられたんですか?
柿原 はい。ほかの楽器がわからないと演奏できませんからね。
―それでは、もし小鼓のほうがいいなと思っていたら小鼓方になっていた可能性もあるわけですか。
柿原 そうですね。まぁ、私は親父が大鼓でしたから、ほかに行こうとは考えませんでしたが……。
国立能楽堂の養成所でも、最初は謡、四拍子を全部稽古するんですよ。そして、適性テストみたいなことをして役を決める。僕はそんなことしないで、好きな楽器をやらせてあげたらいいと思うんですけどね。
―高校生の時にはすでに、九州に音に聞く天才がいると評判だったそうですね。
柿原 当時は謡や仕舞を嗜む人がけっこういたので、いろいろな会で舞台の経験をさせていただきましたが、所詮は九州でのことです。
ただ、福岡市で朝日新聞主催の五能流という催しがあって、安福春雄先生もたびたび出演されていたんですね。時間が許される時に稽古をお願いしていたんですが、「高校を卒業したら上京するように」と声をかけてくださって、34年4月1日に上京しました。
―そして、安福春雄先生のただ一人の内弟子になられた。
柿原 はい。幸いなことに、上京後10日あまりで先生の息子さんの建雄さんの代役として、長野市で能「花月」と奉祝曲「東天紅」を務めさせていただくことになりました。
高校を出たばかりの私にとって、あまりに突然のことで、舞台に出られる喜びよりも、初めての曲を覚えられるだろうかという不安のほうが大きかったのを覚えています。
4月初めには能楽養成会第二期に入会させていただき、一期生に追い付け追い越せという感じで稽古に励む一方で、その年だけで能を20番、囃子は100番やらせていただきました。
能に限らず邦楽には指揮者がいない。
だから、掛け声で意思の疎通をはかる。
―能楽の囃子は笛、小鼓、大鼓、太鼓の4つの楽器で構成されていて、笛以外は打楽器ですよね。どう違うのですか。
柿原 小鼓は、左手で持って右肩に鼓を置き、右手で下から上へ打ちあげます。調緒(しらべお)という麻紐を締めたり緩めたり、あるいは打つ位置や打ち方に強弱をつけて数種類の音色を出すことができるのが特徴です。演奏する際には適度な湿気が必要で、皮に息を吹きかけたり、裏皮に張ってある調子紙(和紙の小片)を唾でぬらしたりして調節するんですよ。
太鼓は、前に太鼓を置いて、2本の撥で上から下へ打ち下ろします。
そして大鼓は、左手で持って左膝に置き、右から左に横に打ちます。小鼓と違って湿気を極度に嫌うので、皮は演奏の前に炭火で1時間以上焙じ上げ、乾燥させるんですね。それを加減しながら力いっぱい締め上げるんですが、締め具合によっては皮が破けちゃう。だから1回も使わないで新しい皮をだめにしてしまうこともあります。それに、1時間くらいすると湿気を帯びて音が変わってしまうので、途中で替えの鼓と取り替えることもしょっちゅうです。
―皮は一生物ではないのですか。
柿原 消耗品ですよ。今は年間20組くらい、多い時は30組くらい買っていましたね。
―囃子は全パートのスコアもなければコンダクターもいませんよね。しかも流派によっても違う。どうやってそろえるのですか。
柿原 能に限らず邦楽は、すべてに指揮者がいません。だからそれぞれの音楽特有の掛け声があり、その掛け声でお互いの意思の疎通をはかるんです。
民謡にしても祭りの音頭にしてもヨッとかハ~ッとか、みんな掛け声がかかっているでしょう。西洋音楽は指揮者がいるから掛け声がないんですよ。
通常の能の囃子では、太鼓物では太鼓が、大小物(太鼓が入らない場合)では大鼓方が、主にリーダーシップを任されています。初めのうちは実力者や先輩などに、曲の位取りや運び方などを教えていただきながら勉強していくのが普通ですね。
―大鼓のカーンというまっすぐな音と、掛け声の気迫には圧倒されます。
柿原 鼓を打つには、打つ一拍前の打たない間、おなかのなかで「んっ」という間を正しく取ることが一番大事です。それを「コミ(込)」をとると言うのですが、正しい拍に打つためには、まず正しい「コミ」がとれて、掛け声の掛け始め、掛け終わりが正しくできなければなりません。そうすれば当然、正しい拍に当たる。「コミ」一番、「掛け声」二番、「打つ」三番というふうに私は思っているんですよ。
―なるほど。目に見えない、音にもならない“裂帛(れっぱく)の気合”と言いましょうか、そういうものが一番大切なのですね。
能は、肩肘はらずに気楽に観て、その雰囲気を楽しめばいい。
―2人の息子さんが立派な大鼓方になられました。どうやってうまく後継者にお育てになったんでしょう。
柿原 6歳になる前くらいから稽古を始めました。小学校の間は大鼓をテープに吹き込んでおいて、とにかく毎日稽古させろ、稽古しないうちはご飯を食べさせるなと。
―奥さまに? けっこうスパルタだったんですね。
柿原 そんな感じで6年間稽古をつけましたから、けっこう高いレベルまで到達していたんですね。ここまでやっておけば、いつか戻ってきてもものになると思っていたので、中学では部活でも何でも好きなことをやっていいと言ったんです。
だって、小学校1年か2年の時の作文に、「僕は本当は新幹線の運転手になりたいけど、大鼓を打つ人に決まってます」なんて書いていて、「これじゃ可哀想だな」と思って。
実際、長男は中学の時にしばらく辞めていたんですよ。ところが、高校2年の時に「僕はどうしても大鼓方になりたいから芸大に行かせてくれ」と言い出して、芸大に行き始めたら、「なんで中学、高校時代にずーっと稽古を続けてくれなかったのか」だって(笑)。僕の人生じゃなく、お前の人生だろうって話ですよね。
―確かに。
柿原 だから、2人とも決して無理強いしたわけではなくて、素直に釣られていった(笑)。
甥っ子2人も九州でプロでやっていますが、高安流大鼓方12人のうちの半数が私の弟子です。今では孫にも稽古しています。
―ところで、野球がお好きで、チームもお持ちだとか。
柿原 15、16年前に息子と同世代の囃子方の人から、野球チームを作りたいから監督になってくれと頼まれたんですよ。
もちろん私も現役選手として加わることを条件に引き受けたんですが、ちょうど野茂(英雄)投手が、ロサンゼルス・ドジャースで活躍している頃で、その名も「柿原組ドジーズ」。ユニフォームも作ってね、試合も何回かしました。
ただ、名前の通りドジばっかりで、監督の指示なんてあってなきが如し。だって、バントの指示を出したってできないんだ(笑)
―今でも練習されているのですか。
柿原 みんな忙しくなったのか、この1、2年は練習してませんが、でも、みんなで集まって、キャッチボールしてるだけで楽しかったですねぇ。
そういえば、野球をするに当たって、子供たちに負けないように、足腰を鍛えようと思って始めたエアロバイクは、今でも続いていますよ。
―最後に能楽の魅力、そして楽しみ方の秘訣を教えてください。
柿原 日本が世界に誇る伝統芸能である能楽には、人間の喜怒哀楽とか不条理といったものが全部入っています。
能を見ることによって、日本人の中に脈々と流れる、人に対する思いやりとか優しさに気付いてもらえれば嬉しいですね。そして、経済とか学力とかだけではなく、しつけを見直すきっかけになればと思います。そうすれば、殺伐とした事件も少なくなるのではないでしょうか。
いずれにしても、あんまり肩肘はらずに、気楽にご覧になればいいんです。
―寝ちゃってもいいんでしょうか。
柿原 ええ。その雰囲気を楽しんでいただければいいんじゃないかと思います。
<プロフィール>
柿原 崇志(かきはら たかし)さん
昭和15年、福岡県大牟田市生まれ。30年頃より父繁藏に師事。31年、初舞台、舞囃子「船弁慶」、初能「敦盛」。34年上京し、安福春雄師に内弟子として師事。37年、能楽協会入会。57年、日本能楽会(重要無形文化財総合指定)入会。能楽養成会。国立能楽堂能楽(三役)研修講師。東京藝術大学非常勤講師を18年間勤める。47年度、芸術選奨文部大臣新人賞受賞。平成5年度、観世寿夫記念法政大学能楽賞受賞。近著に『先人よりの覚え書』