夢を持つことがすべてにつながった
元女子バレー全日本エースアタッカー スポーツキャスター
大林 素子さん
きれいなドレスを着て舞台に立つことが夢だった。その夢は小学生のときに早くも粉砕。小学6年生で170㎝という身長のためだ。「背が高い」というコンプレックスを救ったのはバレーボール。夢はオリンピック選手になることに変わり、見事にかなえた。きれいなドレスかどうかはともかく、舞台に立つ夢もかなえた。常に夢を持ち、そのための努力を続けている大林素子さんにお話をうかがった。
(インタビュー/津久井美智江)
いったん舞台に上がったら、経験も実績も関係ないと痛感
―アトランタ・オリンピック出場後の97年に現役を引退して、すぐにキャスターの活動を始めましたが、違う世界に入ることに迷いや戸惑いはなかったのですか。
大林 ぜんぜん。私たちの時代からでしょうか、現役のスポーツ選手がテレビに出るようになっていましたので、立場が変わっただけという感じですね。引退したその日からキャスターの仕事をしていました。
―バレーを始めたのは、小学生の頃は背が高いためにいじめにあったことがきっかけだそうですね。
大林 小学6年で170㎝もあったので、「でかい」とか「ウドの大木」とか言われて、コンプレックスの塊になっていました。そんな時にテレビアニメ『アタックNO.1』を見て、バレーをやればいじめられないかもしれないと、一縷の望みを持ったんです。中学1年でバレーを始め、それからはオリンピック選手になることしか考えませんでしたね。初めて「大林素子です」と胸を張れるようになったのは、中学3年で東京都中学選抜に選ばれてからでしょうか。
オリンピック選手になるという夢がなかったら、どうなっていただろう。自殺してたかもしれません。それくらい深刻でした。だから「大きい」ことに対するコンプレックスがなくなったことは1回もありませんし、「大きい」と言われることは今でもうれしいことではないですね。
―子どもの頃の夢はきれいなドレスを着て舞台に立つことだったそうですが、バレーはある意味、自分自身を表現する手段だったのでしょうか。
大林 バレーの世界は、自分に自信がある、自分が一番でいられる場所ということですかね。女優として舞台に立つこととはまったく違います。舞台の仕事ではマイナス思考になりがちで、実績や経験がない、引き出しがないということがこんなに人を弱くさせるのかと痛感しています。
―経験に裏打ちされて、自信というのはついていくものですからね。
大林 バレーでは、本当に苦しい経験を積み重ねてきていますから、実績ということに対して普通の人よりこだわってしまうのかもしれません。
でも去年、蜷川幸雄さんの舞台に出させていただいて、経験なんて関係ないということがよく分かりました。新人であろうとベテランであろうと、舞台に立ったらそれがすべてなんですよね。
今年は、「経験がないから、自信がない」という考えは切り捨てたいと思います。
“特攻の母”と呼ばれた鳥濱トメさんを演じる意味
―大東亜戦争末期、特攻基地の知覧で“特攻の母”と呼ばれた鳥濱トメさんの実話を元にした舞台『Mother特攻の母、鳥濱トメ物語』が、3月に再々演されるそうですね。
大林 実話に勝る物語はないということなのでしょうね。あの対戦を風化させないために、私たちができることは何なのか、それを伝えていきたいという思いが、劇団にもサポートしてくれる方々にも、私自身にもあって、お金とか出世のためではなく、純粋に続けたいと思っています。
―この芝居に出合って、何か変わったことはありますか。
大林 本当は女優がそこまでやっちゃいけないんでしょうけど、スポンサー集めや宣伝活動など、半ば制作スタッフとしてもいろいろやっているので、共に作ってきた感じがすごく強いです。世の中、不景気でシビアでしょう。小さな劇団の役者さんたちはバイトしなきゃやっていけない。夢だけじゃ生きていけないという現実も突きつけられています。
―とはいっても、オリンピック選手になるという夢があったからこそ、今の大林さんがあるわけでしょう。
大林 そうですね。お金よりも夢をとっているので、貧乏なんですけど(笑)。だから、幼稚園の頃から憧れていた宝塚の娘役、ヒロインを演じる夢は、これからも持ち続けます。シニアのベルバラ、シニアのエリザベートだったら可能性はなくはないでしょう(笑)。
―ところで、国内A級ライセンスや小型船舶免許などを取っていますね。仕事とはいえ実際に取得するのはすごいです。
大林 私の場合はラッキーな出会いがたくさんあって、A級ライセンスや船舶の免許もそうですが、好きだったものや興味のあったことが仕事になっているんです。
私は歴史好き、特に新撰組オタクなんですけど、函館と会津と京都、それから最近は知覧と、かかわりのある場所には、年に2、3回ずつ行っているんですね。自腹を切っても年に1回か2回は必ず行くんですけど、交通費もばかにならないでしょう。
「何々が好き」と言い続けていたら、バレーボールの教室や講演会、旅番組のロケとかで必ず1年1回はいける。福島県の「シャクナゲ大使」も、私が会津に行き続けていたからいただいたお話なんですよ。仕事で好きな場所に行けるなんて、なんて幸せかと……。
―行く度に巡るルートは変えるのですか?
大林 行く場所は全部決まっています。要するに、お墓参りの感覚なんです、親戚でもないのに(笑)。他人のお墓に行くのはどうかという意見もあるらしいですが、私は元旦からお墓に行っちゃうタイプ。それなら自分の父親とかおばあちゃんとかのお墓にもっとちゃんと行けという話ですよね(笑)。
―「歴女」がブームですし、お墓巡りも流行っているみたいですね。
大林 昨日今日好きになった人と一緒にされたくない(笑)。韓流もサッカーもお笑いもそうですが、仕事柄いろんなものを先取りできるので、目をつけるのが早いんですよ。
世界で経験してきたことを子どもたちにこそ伝えたい
―人間として成長する過程で、スポーツは大事ですよね
大林 今も運動会では全員が1等賞なんてことをやっているんでしょうか。やはり順位を競うことは大事だと思うので、私は反対ですね。勝てば喜びと達成感が得られますし、負けても悔しさとか、次はもっと頑張ろうという気持ちを持つことができます。スポーツは、競うことの大切さを手っ取り早く教えてくれるんですよね。
―今の若い人たちが打たれ弱いのは、そういう経験をしてないからでしょうね。
大林 私は常に勝負の世界にいましたので、そこから抜けられない性格になってしまいましたけどね(笑)。
でも、学校には体育とか運動会とか、スポーツイベントをもっと大事にしてほしい。球技大会、競技大会、授業の紅白戦、何でもいいんですよ。紅白戦なんてクラスが分裂するくらい燃えますでしょう。それこそ青春ですよ。その頃に共有したものは人生の宝物です。
―東京都では去年の7月、スポーツ振興局を設けました。スポーツ都市東京を実現するためのアイデアはありませんか。
大林 JFA(社団法人日本サッカー協会)が、現役のJリーグ選手やなでしこリーグ選手、そのOBやOG、そのほかの種目の現役選手やOB、OGを、「夢先生」として小学校に派遣して「夢の授業」を行う「JFAこころのプロジェクト」というのをやっています。国や自治体もぜひ参考にしたらいいと思います。
―小学生の時に本物のアスリートに接することは、その競技に興味がある人もない人もすごく大きいと思います。
大林 特に世界レベルのアスリートたちが経験してきたことは、何物にも代えがたい本当に貴重なものです。私も神戸親和女子大学で客員教授をやっていますが、小学生や中学生にこそ伝えたいことってたくさんあるんですね。ほかのアスリートの人たちも同じ気持だと思いますよ。特に世界レベルのアスリートたちが経験してきたことは、何物にも代えがたい本当に貴重なものです。私も神戸親和女子大学で客員教授をやっていますが、小学生や中学生にこそ伝えたいことってたくさんあるんですね。ほかのアスリートの人たちも同じ気持だと思いますよ。
―どの自治体にも美術館や博物館、劇場があって、何かしら催し物をしています。学校の体育館やグラウンドを利用して、月に1回でもいいから本物のアスリートの技にふれるイベントはできないものでしょうか。
大林 オリンピアンやプロ選手以外にもアスリートだった人はたくさんいます。そういう人たちのキャリアを、スポーツの振興にもっともっと活用したらいいと思います。有名じゃないから呼ばれないという人が8割なんですよ。そういう人材を活かさないのはもったいない。そして、将来的にはアスリートたちのセカンドキャリアにつながっていくようなシステムができるといいと思いますね。
―スポーツに限らず、職人の世界や何かの達人でも応用できそうですね。
大林 その土地土地に、素晴らしい人はいっぱいいますよね。そういうプロフェッショナルがいる塾みたいなものがあちこちにあって、常にいいものに触れることができたら楽しいでしょうね。
自治体はそういうところにお金を使ってほしい。小さい頃にいろんな選択肢が与えられる環境って大事だと思いますから。
<プロフィール>
大林 素子(おおばやし もとこ)さん
1967年、東京都小平市生まれ。中学1年からバレーボールを始め、中学3年の時に東京都中学選抜に選出。その後、高校バレーボール界の名門八王子実践高校に進む。86年、日立入社。ソウル五輪、バルセロナ五輪に出場。95年、イタリアセリエA・アンコーナに所属、日本人初のプロ選手となる。帰国後、東洋紡オーキスに所属。96年、アトランタ五輪出場後、97年に引退。現在、日本スポーツマスターズ委員会シンボルメンバー、日本スポーツ少年団委員、VAS(バレーボールアドバイザリースタッフ)としても活動中。