ワキ方の本質は「耐えて許して慰めること」です
ワキ方下掛宝生流 能楽師 現十二世宗家
宝生 閑さん
日本が世界に誇る伝統芸能である能には、シテ方とワキ方という役籍がある。舞台に最初に登場し、じっと座って最後まで舞台全体を支えるのがワキ方。観客を中世の夢物語の世界へ誘い、一緒に旅をするという役を担ってもいる。シテ方から圧倒的な支持を得ている下掛宝生流現十二世宗家、宝生閑さんに能、そしてワキ方の魅力をうかがった。
(インタビュー/津久井美智江)
ワキ方は、観客を舞台の世界にタイムトリップさせるのが役割です
―能にはシテ方とワキ方という独自の役籍(やくせき)があります。ほかの演劇の世界では見られない分業制ですね。
宝生 ワキ方は、漢字を充てれば「脇」ですが、演劇や映画のいわゆる脇役と同義ではありませんでね。わかりやすく言えば、シテの相手役とでも言いましょうか。
能は、まず面を付けない直面(ひためん)のワキが登場し、曲目の舞台である土地や物語の背景を語ることから演目を開始します。見所(観客席)のお客様に、平安や室町の時代にタイムスリップしていただき、シテの登場を準備するわけです。
ワキの役には僧侶や神主、公家、武士、山伏などが多く、必ず男性で、現実の生きている人間です。ワキは現代の人間であると同時に、平安や中世の人間でもあるんですね。
シテが登場すると、ワキは問答しながらシテが「実は自分は誰それの霊で……」という風に、自らを語るように持ち込む。シテは多くを語ろうとしませんから、ワキがしゃべらせるんですよ。
そして、いよいよシテが本格的に舞う段になると、ワキは舞台の隅からシテを見つめる。中入りといってシテがいったん舞台を下がっても、ワキは舞台にとどまり、狂言方と問答などをします。
要するにワキは最初から最後まで舞台にいるんですね。
―ワキは、能の案内役であり、進行役でもあるのですね。ところで、早稲田大学でワキ方の謡の指導をしているそうですが、謡もワキとシテでは違うのですか。
宝生 ワキは、先ほども言いましたが、舞台となる場所や情景をはっきり言葉にして説明するのが務めです。ですから、言葉がはっきり言えないといけません。
シテは謡ってそれを表現しますが、ワキは言葉に近いように謡うというか、独自の型をつくるんですよ。
そのためには、まずは声をつくることが大事。曲の意味もわからない子供のころから大きな声で稽古をして、初めて声ができます。
それから、謡に力がないとだめですね。つまり体の中から声を出す。発声するところから舞台をつくっていくことが大事じゃないかと思いますね。
そして、ワキは演技をするわけではありません。お仕舞というのがありますが、ワキの場合は仕方といって型で表現する。それが一つのワキの演技なんですよ。座っているのも型なんです。
型から入って心を知る。これが能の特質だと言えるでしょうね。
―では、ワキ方の魅力はどの辺にあるのでしょうか。
宝生 ある意味、能というのはワキが見ている物語なのかもしれません。
揚幕が上がって、橋懸りに一歩足を入れた瞬間から、ワキは中世の旅人です。そして、橋懸りを歩いて舞台に着き、能舞台のワキ座に座って、タイムスリップし、時代も場所も超えた夢物語の世界に遊び、神、草木や花、化身や霊と話をする。『羽衣』では三保の松原、『敦盛』では須磨の浦、『竹生島』では琵琶湖、『井筒』では在原業平の女、『敦盛』の平敦盛という具合にね。
言ってみれば、ワキの本質は耐えて許して慰めることと言えるでしょう。
ただし、舞台の上でワキが耐えているように見えてはいけないんですよ。耐えることは当たり前、苦しそうに見えたのでは、観客は舞台の世界に入ってこられませんから。
ですから、舞台と見所、能楽堂全体が一体となり、精神的なつながりを感じられたときは幸せです。ただ、その境地にたどり着くのはなかなか大変ですがね(笑)。
ジャズや児童劇の世界に進もうと思ったこともあります
―お若い頃、ジャズバンドや児童劇に参加されていたそうですね。
宝生 12歳で終戦を迎えましたが、その頃は、能を上演する場や機会が、本当に少なくなっていたんですよ。まだ子供ですから、役ができるわけでもないし。
それで、その頃流行っていたジャズにはまった(笑)。音楽をやっている知り合いが音大に行って、そこで流行のジャズに興味を持ったのが始まりです。
ピアノなんか弾けるわけありませんから、最初はドラムから始まって、ビブラフォンという木琴みたいな楽器、ベースも弾きましたね。
ジャズの場合は何をやっても良くて、リズムに合わせて面白く音をつくってしまえばいいの(笑)。その代わり、曲のテーマだけはしっかり捉えておきますけどね。
能もそうですが、みんなで何かをつくり出すに当たっては決まり事があって、それさえ押さえておけば、後は自由なんです。
で、まあ演奏できるようになって、座間とかの米軍のキャンプに一緒に行こうということになった。
演奏が気に入ると兵隊さんがチップをくれるんですが、ドルなんですよ。当時は1ドル400円くらいで、円に両替すると360円。向こうにしてみればおこづかいみたいなものだったでしょうけど、我々にとっては大変なものでした。
―おいくつくらいの時ですか。
宝生 14、15歳の頃です。
―中学生じゃないですか! お父様に叱られたりしなかったのですか。
宝生 内緒ですから(笑)。親も舞台や稽古などで遅いものですから、完全に寝てると思ってたみたいですね。
―児童劇ではどんなことを。
宝生 ヘンゼルとグレーテルとか、童話劇を自前でつくって、子どもたちにみせたりしていました。
主に裏方で、役といっても背景の草や木でしたがね(笑)。
―いろいろな世界に足を踏み入れながらも、お能の世界に身を置く、下掛宝生流を継ぐことに迷いはなかったのですか。
宝生 いや、辞めようとして童話劇などに入ったんですよ。なにしろ能の舞台が少なかったもんですからね。自分一人抜けても大丈夫だろうという感覚でした。だから児童劇はずいぶんやりましたね。
少年時代に戦争を体験しているので、争いごとは嫌いです
―能楽は、舞踏・演劇・音楽・詩などの要素が交じりあった現存する世界最古の舞台芸術として、ユネスコの世界無形文化遺産第一号に指定さています。いつ、どうして、このような舞台芸術が生まれたのでしょう。
宝生 能楽は鎌倉時代後期から室町時代初期にかけて、観阿弥・世阿弥の親子がつくったとされています。
当時の民俗芸能の「猿楽」が能の源といわれていますが、最初は曲舞(くせまい)というご当地ソングのようなものだったんですね。
それは、ただ舞うだけのものだったと思うんですが、それだけでは面白くなかろうと、観阿弥・世阿弥が和歌と結びつけて七五調の曲をつくり、演劇性を持った脚本につくり変えた。
これは画期的なことだったと思いますね。
―ギリシャ悲劇など知られていない頃ですからね。
宝生 ギリシャ悲劇がちゃんと繋がっていれば、そこからヒントが得られたかもしれませんが、途絶えているでしょう。演劇という概念がない頃に、脚本のある音楽劇がつくられ、しかもそれを認める人達がいた。
日本人の文化に対するというか、表現力に対する感覚が優れていたんだと思いますね。
―それにしても、よく600年も伝わったものですね。
宝生 現代に近い能を完成させた世阿弥が能楽書『風姿花伝』を書き、それが各家に伝わったおかげでしょうね。
本来、風姿花伝は一子相伝。観世の家にしか伝えず、弟子にも見せませんでした。しかし、金春蝉竹が世阿弥の娘婿だったこともあり金春流にも伝わったように、自分の子供にしか教えないということではなく、優秀な弟子は座長にすることもあったんです。
明治維新の後、何かの拍子に一般に流れたこともあるでしょうけど、そうでなければつながらないですよ。
それから、和歌をテーマにした曲がたくさんあることからもわかるように、古典との関わりが深いんですね。そういうものを題材にして、わかりやすく、楽しく、人間の優しさや醜さ、浅ましさ、人生の無情さなどを教えている。だからこそ、能は現代まで続いてきたんでしょう。
―源平の合戦などの「修羅物」では、戦というものは勝っても負けても修羅道に落ちると、戦争の虚しさを教えています。まさに現代にも通じますね。
宝生 その教えが世界に広まれば、今のように戦争は続かないはずなんですよ。しかし、経済的なことが絡むと陣取り合戦が始まる。なかなか仏さんの言うことはわかりにくいですな。
私は少年時代に戦争を体験しているせいか、個人であろうと、国同士であろうと、争いごとが嫌いです。争いごとは醜いですからね。
生きていくためにはマネーも陣取りも大切でしょう。しかし、それを超えて文化や芸術を通して精神的に繋がり合える人間こそが上等と言えるのではないでしょうか。
<プロフィール>
宝生 閑(ほうしょう かん)さん
1934年、宝生弥一の長男として東京に生まれる。5歳より祖父の宝生新、父の弥一に師事。1941年、「葵上」で初舞台。1943年、「岩船」で初ワキ。 1994年、重要無形文化財保持者各個認定(人間国宝)。1996年、紫綬褒章受章。2002年、日本芸術院会員。活動範囲は能にとどまらず、1978年のNHK大河ドラマ『黄金の日日』に清水宗治役で出演するなど、さまざまなジャンルにわたる。