人類が持っている唯一の共通の価値観、それは赤十字の「人道」の精神です。
日本赤十字社社長 国際赤十字・赤新月社連盟会長
近衞忠煇さん
人道、公平、中立、独立、奉仕、単一、世界性という7つの基本原則に則って行動する赤十字。その活動は、自ら戦争負傷兵の救護を体験したアンリー・デュナンの「傷つき苦しんでいる人を救いたい」という思いから始まった。誰もが知っているその活動に半世紀近く従事し、昨年、アジア地域から初めて国際赤十字・赤新月社連盟の会長に選出された日本赤十字社社長、近衞忠煇さんに、赤十字との出合いから今後の役割までをうかがった。
(インタビュー/津久井 美智江)
国家主権に対して、人道・中立である
赤十字の活動はどうあるべきか。
―赤十字思想のシンボルは「白地に赤い十字」だとばかり思っていましたが、「白地に赤い三日月」があるということを初めて知りました。
近衞 「赤十字」、「赤新月」、それから2005年に採用された、現時点ではイスラエルだけが使っている「赤いクリスタル」があります。
「赤十字」の標章は、赤十字思想の創始者であるアンリー・デュナンがスイス人だったので、彼の母国に敬意を表してスイスの国旗の色を反転させただけで、宗教的な意味はないのですが、イスラム教徒にとってはキリスト教の十字軍を彷彿するとして、あまりいいイメージではない。それでトルコが「赤新月」を使い始めたんです。
日本ですら19世紀の終わりにジュネーブ条約に加盟するに当たって、十字には耶蘇教の意味合いはないかと調べさせていますからね。イスラエルとしては、自分のシンボルのダビデの星を使いたがっていたのですが、ユダヤ教のマークをそのまま認めるわけにはいかず、妥協案として「赤いクリスタル」を3番目のシンボルとして認めました。
―シンボル一つにしても、国際的にすべての人びとに受け入れられるものを作るのは簡単ではないのですね。
近衞 世界で受け入れられる妙案が思い浮かばないものですから、冗談半分に「日の丸を譲れ」なんて話もあったそうです(笑)。
「赤十字」というのは中立のシンボルで、それを掲げている人や建物を攻撃の対象にしてはならないというのがそもそもの目的ですから、それぞれの国が三日月を使うとか、日の丸を使うと言い出したら話にならない。
赤十字としては、シンボルは一つにしたいという夢がいまだにあります。
世界を見てやろうの精神でロンドンへ留学。
赤十字100周年記念パレードに参加することに。
―赤十字との出合いを教えてください。
近衞 初めて赤十字のことを知ったのは、中学生の時です。スイスの赤十字国際委員会が行った第二次世界大戦中の救護活動の様子が紹介された写真集で、戦時下においても中立の活動を実践している組織があると知って、非常に強く心に刻まれました。
それからロンドン留学中の1963年、遊びに行ったジュネーブで、日本の国際機関代表部の大使をされていた青木盛夫さんをお訪ねした時のことです。ペルーの日本大使公邸占拠事件の青木盛久さんのお父様ですが、人質になった青木さんが中学高校の1年先輩で、同じ新聞部だったものですから、お宅にもよく遊びに行き、ご両親も良く存じ上げていました。
それで、「貧乏学生だから、どこか、屋根裏部屋でもいいから泊めてください」とお願いしたんです。そうしたら「泊めてやるけれども、赤十字創設100周年の記念行事として、各国の代表がナショナルコスチュームを着て国旗を持ってパレードすることになっている。ついては俺の羽織袴を貸してやるから出ろ」ということになったんです。
当日はドシャ降りの雨で、ずぶぬれにしてしまった。「俺の羽織袴を台無しにしやがって」と、亡くなるまで恨んでおられましたね(笑)。
その時はそれほど深い話をしたわけではないのですが、青木大使が赤十字を高く評価されていることは心に残りました。
―ロンドンに留学されたのは、どんな目的があったのですか。
近衞 国際的なことをやってみたいという漠然とした思いはありました。しかし、60年代はまだ遊学なんていう言葉があったくらいで、今なら留学して資格を取るところでしょうけれど、当時はまだ世界を広く見てやろうという時代でした。実際、外国に開かれている窓は小さかったし、お金もなかったけれども、かなり旺盛に何でも見て歩きましたね。
2年後に帰国する時は3カ月くらいかけて、当時は入るのが難しかった社会主義の国々や紛争や対立が続く中近東、アジアの国々、返還前の沖縄を回りました。
トルコからキプロスに入った時は、前日にトルコの爆撃があったばかり。トルコ系とギリシャ系の住民がいがみあって分断されている旧市街の中立地帯を行き来して、怖いもの見たさであちこち歩きました。
残虐行為を行ったのは相手側だと互いに非難し合っているのですが、双方の言い分はそれなりに尤もでもあるけれども、そこからは何の解決策も見えませんでした。
この体験が赤十字の活動に携わるきっかけの一つになったと思います。
「連帯の精神」をモットーに、
赤十字の新たな一歩を踏み出す。
―去年の11月、近衞さんがアジア地域から初めて国際赤十字・赤新月社連盟の会長に選ばれたのは、やはり世界の期待があったのでしょうね。
近衞 宗教にせよイデオロギーにせよ、経済の発展にせよ、結局人類を一つにまとめることはできなかった。では、人類が共通に持っている価値観、唯一のシェアできる価値観は何か―。
それは少なくとも150年間揺るがなかった赤十字の「人道」の精神だと。だからこそ、その精神を、あらゆる相違を乗り越えて広げていくことが、赤十字の使命ではないかということを、「Spirit of Togetherness(連帯の精神)」という標語を掲げて訴え続けました。
それを実現するためには、お互いがどんな活動をしているかを知らなければなりません。
例えば日本赤十字社のような大きな組織になると、病院では目の前の患者を診ることに追われ、世界の赤十字が何をやっているかは見えなくなってしまうんですね。それはほかの国でも同じような状況です。
しかし、世界186カ国に赤十字社、あるいは赤新月社がある。そのネットワークを活用すれば、災害の時はもとより、平時でも限りなく大きな力が発揮できるはずです。ハイチの地震ではそれが証明されました。
みんなが手をつなぐことによって、持てる力や秘めている力をもっと発揮できるようにしてゆこうとの考えが、多くの社の共感を得たのだと思います。
もちろん日本赤十字社の活動に対するこれまでの高い評価があればこそのことですが。
―赤十字思想が誕生して昨年で150年ということですが、改めて取り組むべき課題はどんなことでしょう。
近衞 現代の人道危機は、原因が複合的になってきています。紛争や災害の根源には貧困という問題があるんですね。貧困ゆえの環境破壊とか、移住とか、社会的緊張とか、いろんな要素が絡んでいる。
それに立ち向かい、解決するには、日本の国内でも「一国平和主義」「一国繁栄主義」を捨て、地球規模の連帯意識を育んでゆくことが大事だと思います。
アンリー・デュナンは、北イタリアのソルフェリーノで戦争の惨禍を目の当たりにし、赤十字思想を抱いたわけです。
彼が生きていて今のこの世界を見たらどう考えるだろうと、もう一度原点に立ち返り、できることに真剣に取り組んでゆく決意を新たにしています。
<プロフィール>
このえ・ただてる
1939年5月8日(赤十字の創設者アンリー・デュナンと同じ誕生日、世界赤十字・赤新月デー)、東京生まれ。1962年、学習院大学卒業後、ロンドン大学ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスに留学。2年後に帰国し、日本赤十字社に入社。以来、40年以上にわたり、赤十字一筋に活躍。2005年、日本赤十字社社長に就任。同年11月から、186カ国の赤十字社、赤新月社が加盟する国際赤十字・赤新月社連盟の副会長に就任。2009年11月、会長に就任。