HOME » トップインタビュー一覧 » トップインタビュー Vol.125 株式会社サンミュージックプロダクション 代表取締役社長 相澤正久さん
1 The Face トップインタビュー2018年05月20日号
株式会社サンミュージックプロダクション 代表取締役社長
相澤正久さん
芸能の仕事にはまったく興味がなかった。30歳の時、数十年後の事業継承を考え、畑違いの旅行業界から芸能界に飛び込む。マーケティングを重視し、20年前にお笑いの世界に進出。今や株式会社サンミュージックプロダクションの屋台骨を支えるまでに育て上げた。同社代表取締役社長、相澤正久さんにお話をうかがった。
(インタビュー/津久井 美智江)
歴史、特に日米開戦に至るアメリカの動きに興味があり留学。
—サンミュージックというと、タレントを自分の家に住まわせて育てる家庭的な会社というイメージがあります。自宅にかわいいタレントの卵がいる生活はどんな感じだったのですか。
相澤 親父が50年前に会社を作った時、既に僕は大学生で、当時は西郷輝彦さん、その前は宇宙戦艦ヤマトの佐々木功さんのマネジメントをしていました。自宅にタレントがいるのを経験したのは23歳の時、アメリカ留学から帰ってからなんですよ。あれ、何で人がいるの、みたいな(笑)。
創業者の一つのポリシーと言うんですかね。タレントも社員もみな家族、ファミリーであるとの考え方ですね。家族だったら相手のことをどう思いやるか、それをものすごく大事にしていて、亡くなる時も社訓としてそれを継承してほしいと言われました。
—アメリカの大学に留学したとのことですが、ショービジネスを学ぶためですか。
相澤 いえ、なぜかそっちじゃないんですね(笑)。歴史、特にアメリカ近現代史に興味があって、なぜ日本はアメリカと戦わざるをえなかったのかということを勉強したかったんです。それに親父からは、おまえはおまえで好きなことをやれと言われていましたので。
70年代安保の前で、日本の学生たちはずいぶんいきり立っていました。アメリカも行ってみたら同じように学生運動があって、ベトナム戦争ですね、何だ、同じじゃないかと。
1960年代の半ばから70年代の初めというのは、音楽がいちばんいい時代。60sですね。カントリー・ロックからカントリーが外れてロックンロールが出はじめた頃で、カントリーベースの曲をロックにするCCR(Creedence Clearwater Revival)というバンドが流行っていたりして、アメリカってすごいなぁと思いました。
—日本に帰って観光の仕事に就かれますが、なぜそちらの道に進まれたのですか。
相澤 物事を企画立案するプランナーの仕事がしたいという思いがありました。それに英語が使えればいいなと。ちょうどジャンボ機が導入されて大量輸送が始まった時で、日本人旅行者が増えるから、その接客ができるカウンター要員が必要だということで、アメリカの航空会社から内定をもらっていたんです。そうしたら日本航空もニューヨーク、中南米まで路線を伸ばすことになった。だったら日本で同じことをやれればいいと思いましてね、日本の航空会社は試験の機会がなかったものですから、旅行会社にしたんです。ツアープランナーをやらせてくれるということになって、いろんなツアーを作りましたよ。
—例えばどんなツアーですか?
相澤 水をテーマにして、例えばデンマークに入って、コペンハーゲンで人魚像のある辺り黒い海を見て、それからスペインに行ってコスタデルソルの海、ギリシャのエーゲ海を見て、そしてパリでセーヌ川を見るというようなね。普通、ヨーロッパツアーだと縦型とか横型といって、縦型はロンドン、パリ、ローマ、横型はマドリード、パリ、スイスといったコースなんですが、僕が作ったのは縦横斜め型(笑)。すごい高いツアーになってしまうんですが、なぜか満杯になっちゃって、びっくりしました。
限界が見えてきた旅行業界から、戦国時代のような芸能界に飛び込む。
—楽しくお仕事をされていたにもかかわらず、サンミュージックに入ったのはどうしてですか。
相澤 大量輸送が限界に来て、旅行自体が変わっていく。これからはパッケージツアーのような作られた旅行ではなく、カスタマイズできる旅行になるだろうと言われ、専門的なプランナーは必要ないんじゃないかと悩んだんですよ。
そんな時にサンミュージックの役員が、30年後のことを考えて後継者になる気持ちはないかと相談に来たんです。どっちがおもしろいか比べてみると、旅行業界はある程度固まってきた状態、芸能界は戦国時代に見えた。アイドル全盛期で、松田聖子がデビューするちょっと前、サンミュージックには森田健作がいて桜田淳子がいて……歌というものを通じて世の中を幸福にすることができるんじゃないかと感じましてね。戦国時代に飛び込んだほうがおもしろいと思って、決断したんですよ。
—まったく畑違いの仕事ですよね。
相澤 仕事としてタレントのマネジメントをすることには、あまり興味はありませんでした。なぜかというと、一人のタレントと向き合って商売するということは、そのタレントのライフサイクルだけの問題なので、すごく狭い範囲内での仕事に思えて。
もっと広い分野で仕事をしてみたいと思ったので、サンミュージックの中にあるサンミュージック企画という別会社で、コマーシャルの制作とかタレントのCM売込みをするプロモーターの仕事に就きました。そのおかげで広告代理店とのつきあいが始まり、物を売ることと人を売ることの共通性を学びました。手始めに、これからデビューさせるタレントをコマーシャルに使ってもらい、それに歌もタイアップしてデビューさせる仕事から入っていきました。
—当時はまだコマーシャルのタイアップはめずらしかったのではないでしょうか。
相澤 組織的に戦略的にそこまでやっているケースはあまりなかったですね。
サンミュージックに入ってしばらくして、前の旅行会社の仕事の引継ぎでアメリカ西海岸とハワイに行くことになり、その時、社長だった親父に「ハワイにすごくいい子がいると聞いているから、帰りに会ってこい」と言われて会ったのが早見優です。
ハワイの太陽の下で育った非の打ちどころがない健康的な美しさ。しかも英語もペラペラ、日本語も敬語が使えるくらいですから、こんな子はいないと。そうしたら元社長が「おまえがいいと思ったんだからおまえが面倒見ろ」と(笑)。
前の年に松田聖子が資生堂でエクボシリーズのタイアップをやっていたので、まず、資生堂に売り込みました。ちょうど新商品のオーディションがあって、早見優が初代に選ばれました。
これには1年かかりましたが、代理店はこういうところに目をつけるんだとか、スポンサーを放さないためにどうするのかとか、非常に勉強になりました。それに、おいしい焼肉も食べられました(笑)。
うちはお笑い芸人の再生工場、売れなくなった芸人が復活していく。
—それでプロモーターをやりながら、マネジメントも手がけるようになったと。
相澤 タレント付きになると、来る仕事をこなすとか断るとかそっちの方に行ってしまいがちなんですが、僕はそのタレントが今、全体のタレントの中でどの位置にいるのか、新商品が出る時にどういうふうにマッチングするのか、どういうスポンサーに売込みをかけるのかと、相対的に見るんですね。つまりマーケティングです。芸能界と言えども需要と供給が大事だと思うので、マーケティングは絶対に必要だと思います。
—お笑いを手がけるようになったのもマーケティングの結果ですか。
相澤 そうです。実はアメリカの芸能界というのは3本の柱で成り立っているんですね。歌手、役者、そしてコメディアン。日本の場合、サンミュージックもそうですが、歌手から始まって、ある程度の年齢になるとドラマの世界に入っていく。でもそこにはコメディアンがないんですよ。
お笑いタレントは、例えばうちの場合、歌手につければ、司会をやって前座でネタも披露できますから、新しい営業形態が作れるんですね。それで20年くらい前にお笑いを始めました。もちろんすごく反対されましたよ。サンミュージックはアイドルの事務所なのに、お笑いをやっていったいどうなるんだと。最初の5年間はブームが来なかったので、役員会に出ても針のむしろ(笑)。ところが、16年前に突如としてダンディ坂野の「ゲッツ」がブレイクしたんですよ。安心しました(笑)。さあ、見ていろと思いましたね。
—失礼かもしれませんが、一発屋と言われる方が多いような……。
相澤 でも、みんなまだ活躍してます(笑)。うちはお笑い芸人の再生工場と言われていて、売れなくなった芸人がうちに来て復活していく。それは、本人たちが本当にやりたいことをバックアップしているからなんですね。お笑いって自分でネタを作って、演者もやりながらプロデューサーもやる、そういう才能を持っている子じゃないと売れませんから。
ダンディは今でもコマーシャルを9本やっていますし、髭男爵にしても小島よしおにしても、みんな方向を変えながらがんばっています。カンニング竹山はコメンテーターもやっている。メイプル超合金みたいな多才で異色な芸人が出てくるのもうちの特色で、変な芸人が出てきたらサンミュージックだと思えと言われているくらいです(笑)。
テレビ番組ではバラエティ全盛の今、お笑いをやっていなかったら、うちの規模は10分の1になっていたと思います。
—では最後に、今後さらに会社を大きくしていくための考えを聞かせてください。
相澤 まずベースとしての歌とドラマとお笑いをきっちり押さえていかないといけないと思っています。そして、今までは我々が発掘して育成する時代でしたが、それだけではなく、既にその分野で押しも押されもせぬプロフェッショナルな方たちのテレビ等の出演をお手伝いし、メディアに露出することによってさらにその方たちの知名度を上げるという仕事を始めています。そこにはオリンピックもあって、スポーツコメンテーターとしてのスポーツ選手のマネジメントも視野に入れています。
それから、最初の歴史好きの話に戻りますが、歴史を学んでいくとどうしても外交問題、国際情勢に行き着きます。国際社会の中における日本の位置づけを考えますと、防衛ジャーナリストや外交ジャーナリストの方たちが発言する場を広げるお手伝いをすることも大事だと思っています。
<プロフィール>
あいざわ まさひさ
1949年神奈川県生まれ。71年6月米国の大学卒業。太平洋クラブ、京王観光を経て、79年株式会社サンミュージック企画に入社。コマーシャルプロモーター、タレントプロデューサーとして早見優、酒井法子、安達祐実などを発掘、育成。95年株式会社サンミュージックプロダクション取締役副社長に就任後、ドラマ、コマーシャル、映像部門を統括。98年からお笑い部門プロジェクトGETを立ち上げ、ダンディ坂野、カンニング竹山、小島よしお、鳥居みゆき、髭男爵、スギちゃん、メイプル超合金等のお笑い芸人の育成に力を入れる。2004年12月代表取締役社長に就任。一般社団法人日本音楽事業者協会理事。特定非営利活動法人肖像パブリシティ権擁護監視機構名誉理事長。
タグ:サンミュージック 芸能プロダクション