毎年のように、日本のどこかで地震が発生する。その中の幾つかは、それこそ甚大な被害をもたらす、大災害となっている。
かつて中越地震の取材をした折に、被災者相互が、お互いに使っている薬の名前までを知っていたことに驚かされた。救援に入った自衛官が、一軒ずつ確かめようとしたところ、地区の誰もが不明者を知っていて、暗い夜道を辿ることなく、全員を安全に非難させることが出来たと聞いた。
田舎ならではと言ってしまえばそれまでだが、そこには明らかに濃密な人間関係が存在したし、地域社会の結びつきがしっかりと出来ていることを知らされた。
東京にあっても、直下型だとか、東海地震だとか、いや房総沖が怖いとか、様々に言われているが、やがてそれらは現実のものとなって、我々を襲ってくると考えておくべきだろう。防災の備えをしっかりしようと、多くの訓練がおこなわれているものの、一番肝心なのは、実はこの地域社会の結びつきにあることを忘れてはならない。
先月号で、挨拶をしない小学生に触れたが、隣に誰が住んでいるかも知らないことが恒常化しているこの街にあって、いざ災害にあったときの脆弱さを改めて指摘しておきたい。
都会の、それも巨大化したこの東京で、中越と同じ濃密さは望めないにしても、せめて互いの顔が見える生活を持つことが不可能とは思えない。
痛ましいビデオショップの事故を見るにつけ、もう少し人肌のぬくもりが感じられる距離感が存在していたなら、あのような理不尽な事故は防げたかもしれないし、喧騒の中の孤独に追い詰められる人々を生まずに済むのではないかと思う。
濃密さと無縁なことが、都市生活の利点である場合も否定はしないが、せめて日常の挨拶が、ごく当たり前に取り交わされる地域社会を創ろうではないか。そのためには、そこに住む一人一人が自覚を持って考えて行くべきと申し上げたい。