“ひたすらの気合”で
人生を切り開いてきた
稲川素子事務所代表
稲川 素子さん
専業主婦として子育てに邁進していた20代、30代、40代。転機は50歳を前にして訪れた。ひょんなことから娘さんがドラマに出演。そのときうっかり引き受けた“外人探し”がビジネスに。今や142カ国、5300人の外国人を抱えるプロダクションに成長した。24時間、365日営業し、「困ったときの稲川事務所」といわれるほどの多忙を極めながら、65歳で大学に復学。この春めでたく大学院の修士課程を修了し、博士課程に進んだ。「教育国際大使団」を組織し、草の根国際化にも力を注いでいる稲川素子さんにお話をうかがった。
(インタビュー/津久井美智江)
70歳で大学院に挑戦する
バイタリティーはどこから
――博士課程の今回の学科試験は無事に終わられましたか。
稲川 はい。かろうじて落としてはいないと思います。今は、試験が終わって、うれしい、やった〜! この気持ちは学生じゃないとわからない。自動車に乗って帰るときなんか、ルンルンッ。「君よ〜 ♬ 知るや〜 ♬」と、大きな声でアリアを歌いながら帰りました。
――45年ぶりに大学に復学されたのですよね。
稲川 65歳で慶應義塾大学に復学いたしまして、70歳で卒業いたしました。
鉄は熱いうちに打てと思い、東大の大学院を受けましたら、見事に落っこちました。でも、もっと勉強したくて、71歳で東大の研究生になり、過去問を7年分集めて、私の全力を結集して再度受験しました。
英語1、英語2の組み合わせで受けたんですが、それぞれ3枚ある解答用紙の5枚目を終え、あと1枚というところで時間切れ。白紙ですから零点です。他はできていたのですが、「零点の生徒を入れたら試験の意味がない」と言われて、やっぱりダメ。
翌年、再々チャレンジして、72歳でやっと、何とかまぐれで入ることができました。
――どこからそのようなバイタリティーがわいてくるのでしょうか。
稲川 私が実際に体験して得た哲学は、「目標に向かって進んでいれば、いつか必ず叶う」ということ。
今度の試験でも思ったんですが、入学試験のときにとにかく驚いたのが、周囲のみなさんの回答を書く速さ。試験開始の合図と同時に“カチカチッ、カチカチッ”という音が四方八方から聞こえてくるんです。その速さといったら、私の倍。ですから、試験の内容を勉強するのはもちろんですが、70歳をこした私の手が若い人についていく訓練もしなければなりませんでした。
今回も、山をかけて、どんな展開になってもいいように作りこんで、一言一句違わないように丸暗記して、それをいかに速く書くか、時計を見ながら、何回も何回も練習しました。
適材を紹介するのが使命
100%以上、要望に応えてきた
――会社を作られたのは、お嬢様がたまたま出演されたドラマがきっかけとか。
稲川 娘は2歳10カ月からピアノを習わせておりました。ドラマのピアノコンサートのシーンで、ステージの上でただ弾いてくれればいいからと頼まれまして。私は母親として付いて行ったんですが、そのときの監督が「次の映画に出てくれるフランス人が見つからない」と話されるんです。とても困っておられる様子でしたので「私のお友だちにフランス人はいるにはいますけど」とポロッっと言っちゃった。「すぐにでも紹介してくれ」ということになり、彼に電話したところ、とっくにフランスに帰ってしまっていた。
あんなに喜んでいらしたのに「いませんでした」とは言えません。代わりの人を必死で探しました。結果的にその方が素晴らしくて、稲川さんに頼むといい外国人を紹介してくれると評判になり、依頼が殺到してしまったので、会社にしたんです。
――おいくつのときですか?
稲川 50歳です。でも、需要に供給が追いつかない。だって稲川素子事務所という人材銀行に、一人も登録してないんですから。
六本木の街に立ったり、外国人ばっかり集まるレキシントンクイーンというディスコのお立ち台に立って踊ったり……。そりゃ必死で探しました。
――お立ち台ですか!
稲川 お立ち台に立たないと見えないんですよ、全体が。お立ち台で踊りながら、「あそこにいる、ここにいる」とめぼしをつけて、イモ洗いのように込んでいる中をかき分けて行って、ひたすら真面目に説得する。
――初対面でしょう。どうやって信頼してもらうのですか。
稲川 当時は私が本物であることを証明するものはない。あるのは何とかしなければならないという危機感と熱意だけ。
でも、こちらが命がけでやっているという気持ちは相手にも伝わるのでしょうね。契約書も何もないんですよ。初めてスカウトした人が、心と心の契約を守って、お約束の場所に来てくださったときの喜びはひとしおでした。
――ただ外国人であればいいというわけではありませんよね。
稲川 適材を紹介するのが私の使命ですからね、エキストラ一人でも手抜きはしませんでした。
スカウトしてつくづく感じたのは、人間の顔はその人の履歴書だということ。その人のすべてが出るんですよ。社長の役を頼まれたとき、六本木で張り込んでいて、社長に見える人が現れたので、飛んで行ってお願いしたらオリベッティの社長。大学教授の役のときもそう。この人だと思って声をかけたら、カナダのブリティッシュコロンビア大学の物理の教授でした。
――本物のヤクザの方に声をかけてしまったこともあるとか(笑)。
稲川 業界では「困ったときの稲川事務所」として有名で、夜中の12時ごろに電話が鳴った。私が取ると「日本人のヤクザの役を6人探してくれ」と。うちは外国人専門なんですが、気がついたら「やってみます」と言っていました。
5人はなんとか集まったんですが、あと一人が見つからない。電話をかけられる時間ではありませんから、スタッフと二人で六本木に立つことにしたんです。でも、これぞという人が見つからなくて、泣きそうになってたところ、2時ごろでしょうか、芋洗い坂の下から白いスーツを着た長身の人が現れたんです。もう100点満点! 「あなた様のようなタイプを探していました」と台本を差し出すと、「ほお、郷ひろみ。事務所の社長さんおれのこと知ってるよ」とおっしゃる。「だって現役だからね」と。「それは失礼しました。で、どんな歌を歌ってらっしゃるんでしょう」と聞きましたら「違う現役だよ」と。
そこではっと気がつきました、本物だと。それでも「まあ、おヤクザさまでいらっしゃいましたか。やっぱり私の目に狂いはなかった。一点の非の打ちどころもない。ぜひ出てください」とお願いしたんです。
でも、「私が出るわけにはいかない。私が出たら、あなたが迷惑しますよ」と言われまして。それで堅気の方を紹介していただいくことになったんです。
――すごいお話ですね。
稲川 頼まれたことは、一生懸命やる。そして100%以上ご要望にお応えする。これが1000枚の名刺を配るよりも強い営業です。
外国人に対する法のインフラ、真の国際化が求められる
――今では140カ国以上、5300人以上のタレントを抱えていらっしゃいます。文化の違いを一番感じるのはどんな点でしょうか。
稲川 外国人はちょっとでも相違点があると、ワーッと言ってきます。めちゃくちゃ攻撃的に。彼らにしてみれば、話し合いのつもり、話せば分かるということかもしれませんが、話さなくても“察して”理解しあう日本人にはつらいですね。“察する”という気持ちは、世界に誇る精神的技術だと思います。欧米人は「阿吽の呼吸」なんて、その場の雰囲気に流されやすい日本人同士のコミュニケーションと言いますが、お互いの意思を感受し合える気合を持った人同士にしかできないコミュニケーションの仕方なんですよ。
日本人はよく「なにぶんよろしくお願いします」と言いますね。「なにぶん」なんて、外国人にはさっぱり分からない。でも、日本人なら「な・に・ぶ・ん、よろしくお願いします」と言えば、人為的に何かやらなくても、こちらの意図はすべて伝わる。曖昧用語の効用をすごくよく知っているんですね。
はっきり言葉にしないと伝わらないというのは、逆に不器用だと思いますね。
――ただ、ビジネスの場合は、契約が重要になるのではありませんか。
稲川 だから大変。たとえばオーディションで、日本人が外国人を選びますね。すると今度はその外国人が、この仕事はいくらで、どんなことをして、どれだけの時間拘束されるのかと聞いてきます。普通のビジネスなら当然のことでしょうけど、この業界はまったくいい加減ですからね。タダみたいに使われるのだったらやらないし、納得できる金額と内容だったらやるという、彼らの言い分にも一理ある。
――言葉も、肌の色も、生活習慣も、価値観も違う人たちをまとめていく上で大切なのは、どんなことでしょう。
稲川 本当の意味での国際化、心の内なる国際化だと思います。以前はそれぞれの独自性を認めることが大事で、白は白、赤は赤で咲いていればいい。白と赤を一緒にして絞りの花を作りだす必要はないと思っていたんです。
ところが国際結婚が増加して、父親と母親の両方のアイデンティティーを持った新しい人種が増えてきました。それに単純に労働者として日本に来ていた人たちも、皆さんびっくりするくらい帰化しているんですね。これからは労働力としてではなく、ある意味、移民として受け入れ、日本の構成員の一人として共生していかなければならないでしょうね。
――現実問題として、少子化によって、外国人の労働力を借りなければならない状況になっています。
稲川 法などのインフラが整わないまま、外国人だけ入ってきますと、ルワンダのようなめちゃくちゃな紛争はなくても、民族間の小競り合いは起きてくると思います。すぐにでも外国人に対する安全保障や、理念に基づいた法を構築してほしい。政治家の方にも総力を結して取り組んでいただきたいと思います。
<プロフィール>
いながわ もとこ
1934年生まれ。85年、稲川素子事務所を設立。外国人タレント派遣業務のほか、映画、テレビ、ビデオの企画制作、翻訳・通訳、語学指導、講演などを手がける。湯川記念平和賞、国連世界平和賞などを受賞。2004年、病気で中退していた慶應義塾大学文学部を卒業。08年3月、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了、同年4月、博士課程に入学。専攻は国際社会学、国際関係論分野。