能登半島地震に学ぶ災害対応
災害は時を選ばず、いつ起きても不思議ではないと認識させられた本年1月の能登半島地震。創刊200号を記念して、今回はその能登半島地震の現地支援に参加した方々に、災害出動の実際と現場で直面した新たな気付きなどについて話し合っていただいた。今後の災害対応の教訓の一助としたい。
200号記念特別座談会 出席者(発言順)
東京都総務局 人事部制度企画課長 青野 大地氏
東京都福祉局 中部総合精神保健福祉センター 広報援助課 課長代理 鹿野 朗氏
東京都環境局 資源循環推進部産業廃棄物対策課 規制監視担当 松岡 泰彦氏
東京都保健医療局 保健政策部 地域保健推進担当課長 岡田 美保氏
武蔵野赤十字病院 救命救急センター長 日赤災害医療コーディネーター 原田 尚重氏
防衛省 陸上幕僚監部防衛部 2等陸佐
(派遣時:第14普通科連隊第1中隊長)兼子 航氏
東京消防庁 警防部救助課長 消防司令長
(派遣時:東京都大隊長 警防部副参事)川村 亮太郎氏
司会 都政新聞株式会社 代表取締役社長・主筆 平田 邦彦
—災害支援においては想定外の事態に遭遇されると思いますが、事前の準備、現地の状況、組織間の連携等、経験された事象とその対応などについてお聞かせください。まずは、自己紹介からお願いいたします。
青野 東京都総務局人事部制度企画課長の青野と申します。現在は人事制度の企画立案と労使交渉を担当しています。
1月の派遣時には避難所、輪島市ふれあい健康センターの運営支援等の仕事をしていました。
技術ソースが先にあるのではなく、コミュニティがあって刺激し合う。それが基本だと実感しました。健康経営が求めるところも、そういうコミュニティというか一体感なんですよね。
鹿野 東京都福祉局の事業所である中部総合精神保健福祉センター広報援助課で、地域精神保健福祉施策の企画立案を行っています。平時は、東京DPAT事務局として隊員の養成研修や体制整備などの役割を担っています。
能登半島地震の被災地では、DPATの業務調整員を担当していました。
松岡 東京都環境局資源循環推進部産業廃棄物対策課で、普段は産業廃棄物に関する業務に携わっています。
能登半島地震の際、環境局は経験者を中心に能登町と志賀町に職員を派遣し、災害廃棄物の発生量推計や仮置場の設営、緊急解体の発注、公費解体申請受付の体制構築等に携わりました。
私自身は主に仮置場の運用に関する業務と、仮置場の配置計画や案内等の作成、運営方法や問題が起きた時の解決方法の助言などを行いました。
岡田 東京都保健医療局保健政策部地域保健推進担当課長の岡田です。私は、職種は保健師で保健政策部に所属し、南多摩保健所と島しょ保健所を担当しています。石川県が金沢市のいしかわ総合スポーツセンター内に設置した1・5次避難所で避難者支援業務に従事しました。
1・5次避難所とは今回初めてできたスキームで、1次的な避難所に入った後、要配慮の方、例えば妊婦さん、高齢者や障害のある方等、健康面で不安がある方が、2次避難所(被災地外の宿泊施設や福祉施設等)に移動するまでの間を支援する、一時的な避難施設です。
保健師は、被災者が避難所で最初に話す専門職で、必要な支援につなぐ調整役となります。避難者のつらい心情をうかがうことや、介護度が高い方への対応も多く、福祉的な支援も求められました。また、避難所の衛生状態の改善も担当しました。避難者の方が避難所で、またその先でマッチした支援が受けられるように努めました。
原田 武蔵野赤十字病院救命救急センター長の原田です。
日本赤十字社(以下、赤十字)には多数の救護班が存在するため、全国から集まる救護班等のマネージメントを行う災害医療コーディネーターという役割があります。私は東京都支部の災害医療コーディネーターとして任命され、1月13日から17日まで珠洲市に派遣されました。
兼子 今年の3月から市ヶ谷の防衛省陸上幕僚監部防衛部に勤務しています。発災当時は、金沢の第14普通科連隊にいて、発災当初から現地に入り、珠洲市をメインに災害派遣活動に携わりました。
川村 東京消防庁警防部救助課長の川村です。日頃は消防隊や救助隊の訓練指導を行っています。
日本には緊急消防援助隊という制度があるのですが、能登半島地震発災時には緊急消防援助隊東京都大隊の大隊長として、陸上部隊を率いて輪島市に入りました。
東京都各局はどのような支援活動を行ったのか。
—東京都にはいろんな部局がありますが、指揮命令系統というか、どのように支援要請が入るのですか。
青野 現地及び総務省から要請がありました。対口(たいこう)支援団体というのが決められていて、東京都に対しては三重県から輪島市の支援を依頼されました。具体的には、避難所になっている輪島市のふれあい健康センターの運営業務を担当していたのですが、職員派遣に関しては、総務局総合防災部と我々人事部で、各局に対して派遣者を募っていました。指揮命令系統ということでいえば、総務局の総合防災部と人事部で行っていたといえるのではないかと思います。
私の場合は1月9日から17日まで第1陣として入ったのですが、その際は総務局20名体制で担当し、配食業務支援、避難者見守り、シャワー運用、その他清掃等を担当しました。2陣以降は各局に人を出してもらって、避難所の運営支援を行いました。
岡田 保健師班の場合は、被災自治体から厚生労働省(以下、厚労省)へ派遣調整の要請が入ると、厚労省から直接、都道府県の保健師を管轄している部署へ依頼があり、都道府県から各自治体に派遣要請を行った上で、派遣の可否や人数等を回答することになっています。派遣先は厚労省が決定し、東京都は金沢市の1・5次避難所を担当することになりました。
—DPATは比較的新しい考え方です。ご説明いただけますか。
鹿野 DPATとは(Disaster Psychiatric Assistance Team)の頭文字で、自然災害や航空機・列車事故、犯罪事件等の集団災害の後、被災地域に入り、精神科医療および精神保健活動の支援を行う専門的なチームのことです。阪神・淡路大震災の後、しばらくしてから精神的な不調をきたす方が相当数見受けられ、そういう方の支援も必要だということで創設されました。DMAT(Disaster Medical Assistance Team)はすでによく知られていますが、DMATが身体の医療チームだとすれば、DPATは精神の医療の派遣チームといえるでしょう。
DPATの派遣に関しては、厚労省から事業委託を受けているDPAT事務局があり、そこが全国に派遣調整し、派遣するという形です。東京都では平成30年に東京DPATを創設しました。それ以前はこころのケアチームとして活動しており、私も東日本大震災の時はこころのケアチームとして支援に入りました。今振り返ってみると、もっとできたのではないかという思いがあります。
今回の派遣では、七尾市の能登総合病院内にDMAT、赤十字救護班、他のDPAT等が集約されている活動拠点が設置されていて、調整の結果能登町で活動することになりました。
DPATの役割は、まず被災した精神科病院の支援、そして被災した方のメンタル支援ですが、石川県北部は精神科医療がほとんどなく、地域で暮らしている人が非常に多い。輪島市から内陸に移送するということもDPATの一つの役割でしたが、地域から離れたくないという人もいらして、そういう方を説得するのに苦慮しました。
—ゴミ問題は二次災害のようなもので、東京においても大きな課題です。
松岡 環境省から派遣要請があり、経験者を中心にチームが編成され、能登町・志賀町へ派遣されました。
私たちの仕事は、発災直後に被災者を救護するということではなく、ある程度落ち着いた段階からスタートします。災害廃棄物を取り除くことは復興の第一歩であり、災害廃棄物を滞りなく片付けられるようなスキームを作ることが我々のミッションです。
志賀町で災害廃棄物処理に携わった際に、災害廃棄物の推定量を算出したところ、通常の生活ゴミの50年分以上になるという数字が出て、大変驚きました。同時に、この数字を東京都に当てはめると膨大な数字になってしまうことが想定され、非常に大きな課題であると感じました。
災害派遣における救出救助活動の現場とは?
—災害派遣というと、真っ先に行動を起こすのが自衛隊です。能登半島地震発災からの動きを教えていただけますか。
兼子 自衛隊は発災直後には出動していました。私が中隊長を務めていた中隊はファストフォースという部隊を組んでいて、まずオートバイや小型の車で道を確認しながら現地まで行けるかどうか陸路を確認します。発災後すぐに車両を前進させましたが、道路が寸断されており到着できない。次はヘリコプターで現地に向かうのですが、うちの部隊はヘリを保有していないので、速やかにヘリの手配をし、翌朝発進して現地に入りました。珠洲市とコンタクトが取れたのですが、行ってみると電気は全て消えていて、行政の方々も被災されていますから、全くわからないという状況でした。
最初の3、4日間はまず人命救助を行います。その後は水がないということで給水支援、食べるものがないということで物資輸送、道路が崩れていますので他省庁の輸送支援、急な患者さんが出たらヘリコプターで輸送したりと、多岐にわたって様々な活動を実施しました。
他の県の警察の方、消防の方、我々の部隊、初めて会う人間同士ですが、同じ建物で同じ地図を使って、情報共有しながら連携していましたので、最初の目的は人命救助ということで、うまくやれたのではないかと思います。
もちろん上級部隊には報告しますし、判断を仰ぐこともありますが、現地に入った人間が、自分たちで考えて判断し、最良の行動をする必要があると思います。
—東京消防庁のハイパーレスキューはまさに人名救助のために作られた部隊だと思います。今回はどのような支援に携わられたのですか。
川村 東京都の緊急消防援助隊は、総務省消防庁が定める派遣計画からは外れていたので、発災直後に応援部隊の準備依頼はありませんでした。ただ、この規模の震災であれば、いつ出動の指示があるかわかりませんので、モニタリングは継続して行っておりました。
1月7日、消防庁から出動準備依頼があり、車両台数約50台、150名規模の部隊を編成し、1月10日に先に入っていた群馬県大隊と交代するとのことでした。先細りの半島で、なかなか現地に到達できないという情報は入っていましたので、総務省消防庁と防衛省との応援協定を活用し、1月9日、小さめの救助工作車2台と消防救助機動部隊等の10名を先遣隊としてC2輸送機に搭載して、入間の航空基地から小松空港に出発しました。彼らの情報によると、23時くらいに小松空港に着いたのですが、現地の宿営地に着いたのは翌日の8時くらいとのことで厳しい状況ということがわかりました。
先遣隊の情報をもとに、雪道に対応する車両をかき集めて、本来であれば上信越道を突っ切っていくのが早いと思いますが、雪のない中央道経由で北陸を目指しました。20時間を見積もっていたのですが、石川県の金沢東インターチェンジを降りたところから道路被害による通行止めに加え、被災地の復旧を目的とした各機関の車両等との競合により半島の先端まで10時間くらいかかりました。
緊急消防援助隊の活動としては、東京都大隊は1月9日から20日まで輪島市、1月21日から2月2日まで珠洲市で活動することになりました。土砂に埋もれた住宅内の要救助者の救助や、輪島市街地の火災現場の捜索救助活動等を行いました。東京都大隊としては現地で約1ヶ月間活動しました。一定の活動能力を保持するために、活動する部隊の現地での活動期間は4~5日と定め、ローテーションを組み、東京消防庁の総力を挙げて現地での活動に従事しました。
—赤十字はいかがですか。
原田 厚労省により平成17年、DMATが発足し、赤十字もDMATと同等の研修を受講した救護班を中心として、被災現場で協働して活動を行うようになりました。赤十字で災害医療に携わる人間は、赤十字とDMATの両面を持っていることも多く、最初はDMATで行って途中から赤十字の救護班になったりすることは多々あります。
私は珠洲市の健康増進センターに設置された医療調整本部に入りましたが、そこにはDMAT、自衛隊、他の災害救護団体等が集結していて、全体の調整が必要でした。災害時は混沌としているものなので、コーディネーターとして日々ミーティングをして各チームの情報を収集し、調整するということを重点的に行いました。
能登半島地震の派遣経験を東京の災害に生かす。
—今回の災害派遣を経験されて、東京で発災した際の課題も見えてきたのではないでしょうか。
松岡 例えば廃棄物仮置き場を案内する場合、能登半島の被災地では日本語でチラシを作れば大きな問題はありませんでした。しかし、東京には様々な国の人が住んでおり、日本語だけでは伝わらないという地域特性があります。こうしたことも考慮に入れ、あらゆる都民の生活を守るために何ができるのか、対応を考えなければならないと強く思いました。
また、今回の震災と東京都では、想定される災害廃棄物の発生量が大きく異なります。発生量が変わると、処理すべき廃棄物への対応は全く異なってきます。
災害廃棄物の処理に関しては、都でも鋭意検討を進めていますが、都単独で行うにはどうしても限界があります。様々な排出方法を組み合わせながら、災害廃棄物をスムーズかつ適正に処理できるようなスキームを考えていかなければならないと思います。
兼子 量の話が出ましたので、人数という観点でお話ししますと、今回の震災は1月1日発災という時期的特性がありました。帰省されている方や旅行で来ている方たちの人数の把握が難しかったのと、高齢化が進んでいたので空き家が多かったんですね。潰れた家が多く、誰がどこにいるかがわからず、最初の人命救助は難しかったです。
これを東京に当てはめると、移動する人が多いのと、コミュニティが少ないということで、誰がどこにいるかをどのように把握するのかは、かなり難しいと予測できます。
今回の災害派遣では、住民基本台帳を確認したり、一番は現地の人に聞くということでした。「おばあちゃんはまだ住んでいますか」とか「暮れに息子さんが帰ってきていたか」とか、現地の人に聞き取りをして1軒ずつ潰していって捜索したのですが、それが果たして東京で可能かどうか……。もちろん、事前に計画することは大事だと思います。ただ、全てを完全に計画することは不可能に近いでしょうね。
青野 避難所運営をしていた当時のことを思い返しますと、まず水が使えない、隔離スペースがなかったのでゾーニングができない。ノロウイルスやインフルエンザ、コロナが流行っていても、避難者が感染しても隔離スペースがない状態でした。
我々は、配食もシャワー運営も直接行いますから、常に感染リスクがありました。また、避難所運営についての最初の派遣だったこともあり、24時間体制でA班・B班の2班で毎日交替で作業するのですが、休養スペースがなく(第2陣以降は確保された)、電気をつけて働いているところで寝るような状況で、結果的に睡眠がとれずほぼ徹夜。実際、派遣業務終了時点で派遣職員20人のうち10人くらいがコロナやインフルエンザなどの体調不良となってしまいました。
避難所の運営支援において考えなければならないのは、隔離スペースをどうやって確保するかということ。そして、大切だと感じたのは、被災者だけでなく、避難所を運営支援する人間のこともちゃんと考えなければならないということです。それらがあって初めて避難所運営が成立するのだと思います。
鹿野 みなさんそうだと思いますが、精神というと自分とは遠い存在、自分とは関係がないものというのが本音だと思います。最近はやっとDPATも認知されてきたと思いますが、やはり「精神の支援チームですよ」と大手を振って避難所に入るのは憚られます。
これからも被災地の職員や保健師、DMAT、赤十字救護班、災害時健康危機管理支援チームDHEAT(Disaster Health Emergency Assistance Team)など多くの機関との情報伝達の正確性・質の確保、連携を強化して、様々なメンタルヘルスの課題へ対応していけるよう、発災を意識した平常時の派遣体制作りをしていかなければならないと思っています。
岡田 東京都は職員もたくさんいますし、エキスパートの人もたくさんいますが、発災時には東京都だけではどうにもならないと思います。
今回派遣された石川県には地域コミュニティがあり、避難所ではみんなが励まし合ったり、地域で避難所に移動してきたというようなこともありましたが、東京都の場合は自宅に留まる人も多いかと思います。また、在宅で人工呼吸器を装着しながら療養されるなど高度な医療を受けている方が多数いらっしゃいます。
東京都が被災した場合に、どのような支援をどれくらい入れるかは非常に重要です。感染症が流行するなど様々な状況が想定されますが、受援をどのように要請するのか、どう受け入れていくかということは速やかに考えなくてはいけないと思います。
川村 地震に関しては、東京都は受援したことがありませんので、どうなるかわからないというのが実情です。ただ、震度6強以上の地震が都内で起きた場合は、アクションプランといいまして、全国から消防の応援隊が来ることになっています。
都内でも火災が多発するということで、消防は火災防御を主眼とした活動になると思いますが、救助活動の手が回らない部分については自衛隊にお願いしたり、警視庁と連携したり、全国の消防隊にお願いしなければならないことが想定されます。
木密地域につきましては、輪島と同じように建物倒壊で道路が寸断されて、消防車が現場に入れない可能性があるので、小型ポンプ車を準備していますが、それよりもさらに小さくてがれきを乗り越えて走行することができる全地形活動車を配備して、木密地域での火災に備えています。
—発災した場合、どこまで医療が維持できるのでしょうか。
原田 基本的には災害拠点病院というものがあって、ある程度の災害が起きた場合、自家発電が機能してインフラを維持できることはもちろんですが、今は全国的にBCPという概念があって、病院機能をどうしたら維持できるか明示することが義務付けられています。
赤十字という観点では、首都直下地震が起きた時は、東京都が被災地となり、被災地本部の運営が地元で行えなくなる恐れがあります。なので、被災地の外に本部を移し、そこに全国から集結する救護班を調整する機能を担わせる仕組みとなっています。また、東京都の場合は、23区特別区と多摩地区があり、おそらくどちらかに被害が集中する可能性がありますので、お互いが補完し合えるような体制をとっておく。例えば23区で起こったら、多摩地域は受援をし、患者さんを集約して広域搬送するとか、逆もまた然りで、お互い支え合ってやっていくということは考えられています。
今回の活動に関して、非常に驚いたことがあります。聞いた話ですが、珠洲市の北に道路が寸断されて、医療班が一度も入っていない地区があった。発災から2週間近く経って、初めてDMATと自衛隊がそこに入ったところ、200~300人規模の避難所があって、そこに地区長と副地区長がいて住人全員の生活様式を把握している。水は出ないけれど井戸が何箇所か生きていて、みんなでそこに水を汲み出しに行っている。若い人は自衛隊の人がやっと通れるようなところを通って町まで行って、支援物資を持ってきていたそうです。
赤十字は公助を担う立場です。自助共助を美化し過ぎるのはいかがかと思いますが、そういう姿を目の当たりにして、コミュニティでの相互扶助をどうするかは非常に大切だと思いました。東京は今個人に分断されてしまっていますが、日本人はお互い支え合うDNAを持っている人種だと、今回の能登地震で痛感しました。そういう日本人のエッセンスを、どうやって持ち上げていくかということが、これからの最大の課題なのではないかと思います。