使命感と責任感を持って、日本の航空業界を支える人材を育てる。
ラグビーや野球の強豪校として知られる日本航空高等学校石川。併設の日本航空大学校石川とともに今年元日に発生した能登半島地震では甚大な被害を被った。現在は明星学苑が所有する青梅校を無償貸与され、両校の生徒、学生がキャンパスライフを再開した。自らも被災した同学園特別顧問、梅澤慶臣さんにお話をうかがった。
妻の実家で被災、九死に一生をえる。
—今年1月1日に発生した能登半島地震では、輪島市にある日本航空高等学校石川と日本航空大学校石川が被害を受けたそうですね。当日はどんな状況だったのですか。
梅澤 家内の実家が輪島の朝市通りの近くにあり、正月ですから挨拶に行っていたんですね。そこで地震に遭いました。ガタガタッと揺れた途端に足元がすくわれるような感じで、前後左右から壁が倒れてきて、上からは天井がドーンと落ちてきた。一瞬、何が起こったかわかりませんでした。
私は家内と一緒にいたのですが、二人とも前に倒れてしまい、そこにあった和机の下に頭を突っ込もうとしたのですが間に合わず、ハッと気づいたら、私は右肩が梁で押されてびくともしない。家内はというと梁が腰に落ちてきていて、腰が熱いと言っていました。痛いというより熱いという感じだったそうです。でも、和机があったおかげで、家内も私も机と畳の間にかろうじて頭が入ったので助かりました。
娘が隣の部屋にいたのですが、服が挟まれて動けないだけで無事だったので、あちこちに電話して救助を求めてくれ、家内の両親も無事だったので、近所の人を連れてきて一生懸命救助しようとしてくれました。
でも「津波だー、逃げろー」という声が聞こえたと思ったら、スーッと誰もいなくなった。「もうダメだな」と一度は覚悟したのですが、結局津波はこなかったようで、またみんな戻ってきてくれて、家内も私も何とか助け出してもらうことができました。家内は両方の腰骨が折れ、直ぐに富山の病院に入院しました。富山の病院で約3ヶ月の療養後、現在は青梅で一緒に暮らしています。
—学校の被害はどうだったのですか。
梅澤 校舎は建っていますが、電気は通じず、水道管もガス管も全部ダメで、窓ガラスも割れ、壁にはヒビが入っている状態でした。たまたま正月だったので学校には誰もおらず、学生たちや教職員の安否を確認したところ、学生たちは全員無事でした。また、教職員も私以外、けが人はいませんでした。
ただ、教職員は学校の近辺に住んでいますから、被災しているわけです。当学園は約1000人が寄宿していましたので、幸いにも1000人が3日間暮らせる食料と水(1000人×3食×3日=9000食)の備蓄がありました。また、被災した教職員は学校に避難させることができました。おそらく当時、奥能登で一番、備蓄を持っていたのではないでしょうか。
地震の翌日夕方には、当学園の理事長である兄が山梨から駆けつけましたが、後にニュースを見ると、至るところが交通止めになっていて、いつ二次災害が起きてもおかしくないようなところを通ってきたことがわかりました。
理事長以下、何名かの教職員も学校に集まってきたので、理事長指示の下、まず学園の隣にある能登空港に食料を届けました。道路は寸断されていますし、飛行機が飛んできても空港が被災しているので着陸できず、取り残された人が何百人といたんですね。その後も病院などに水や食料を届けました。
能登空港キャンパスは、被災地支援の拠点になった。
—学校自体も大変なのに、なかなかできることではありません。
梅澤 当たり前のことだと思います。2007年にも能登半島で地震があったんですね。その時にも感じたことですが、自分は助かっているのだから、何かしなければならない。すぐにそういう気持ちになるんですよ。現実に対処するしかありませんからね。先ずは学校の教職員、学生たちの無事の確認を取りますが、次にまちを復興させることが必要になってくるんです。
理事長があちこちに連絡し、まず自衛隊が独自に動いてくれました。航空法で準制限区域に当たる当学園の滑走路にヘリコプターが3機、隊員が300人くらい入り、体育館で寝泊まりをし、すぐに支援を開始しました。
次に全国から救急車、消防車が200台くらいやってきて、当学園を拠点にあちこちに出動するようになりました。能登半島というのは細長くて、一番下のほうに金沢があり、そこから被災地に向かうのですが、輪島まで2時間、珠洲までは3時間くらいかかる。でも当学園は被災地まですぐですから、少しでも長い時間作業できるんですね。
その後も総務省から依頼され、各自治体から派遣された職員200人くらいが、大学校校舎内にテントを張って寝泊まりをし、そこから各地域の役所に行って支援しています。
また、被災した周辺の学校も体育館やグラウンドが仮設住宅や避難所になったりしていて使えないので、当校グラウンドや野球場を提供したりと、まさに復旧や復興活動の本部のような場所になっていきました。
—航空学園の生徒はどうしていたのですか。
梅澤 学校には来られないので、当面はオンラインで授業を行い、当初は、4月から高校の生徒約600人は山梨にある日本航空高等学校で、大学校の学生約400人は北海道の千歳にある日本航空大学校北海道で受け入れる予定でした。しかし、敷地が狭いことなどから断念せざるを得ず、廃校になった学校を探したりもしましたが、適当なところが見つかりませんでした。
東京都も支援してくれるということでしたので、小池知事に相談すると、翌日、副知事から連絡があって、学校法人明星学苑の青梅キャンパスが空いているという話でした。理事長がすぐに吉田元一理事長に会いに行くと、「同学苑が所有する青梅キャンパスを3年間無償貸与します、3年たっても復興できない場合は、それ以後もどうぞ使ってください」と言ってくださったんです。
学びの場所は決まったものの、今度は生徒が住む仮設寮の設置に困難が生じました。使用予定だったプレハブは、石川県の被災地で被災者が使うため国が買い占めたので、入手困難でした。相談を受けたOBが伝手を辿って、東日本大震災後、福島県南相馬市で使われていたコンテナを手配してくれ、仮設寮は5月にずれ込んだ入学式に間に合いました。被災後、能登キャンパスに代わって青梅で高校、大学校ともにキャンパスライフを再開することができました。
実は理事長も私も、同学苑が運営する明星大学出身なんですよ。今回ばかりは、母校に助けられました。吉田理事長をはじめとする明星学苑の方々に心より感謝申し上げる次第です。
日本の航空業界を改革し、優秀な人材を育成することに尽力する。
—航空業界は人手不足が深刻と言われていますが、実際はどうなのでしょう。
梅澤 航空業界は毎年、国交省やボーイング社などが20年後の予想を発表しています。そこには、現在世界中で2万機くらい飛んでいる旅客機や貨物機が、20年後には倍になると予想され、人材不足が懸念されています。実際に現在でも、飛行機を作る人、飛行機を飛ばすパイロットやCA、整備士、飛行機を受け入れるグランドスタッフ全てにおいて人材が不足しています。慢性の人材不足なんですね。特に、この20年の間には、パイロット、CA、整備士がそれぞれ80万人不足するそうです。
当学園では、国産旅客機YS―11やセスナ機のほか、ヘリ、グライダーなど30機近い実機を保有し、実際に飛行機を飛ばすという環境を整えていますが、一機何千万もしますし、教材のボルト1本、ビス1本も全部輸入品なのでとてもコストがかかります。
経営的には大変厳しいものがありますが、教育は利益が目的ではありません。日本の航空業界、ひいては世界の航空業界に求められる人材を育成することが我々の使命であり責任であると考え、教育にあたっています。
—御校の卒業生は引く手数多とか。
梅澤 7、8割は第1希望の企業に就職しています。しかも、3大重工(三菱重工、川崎重工、IHI)とか、JAL、ANAをはじめとするエアラインとか、普通の4年生大学の卒業生でもなかなか入れないような企業ばかりです。
企業が今どんな人材を一番求めているかというと、コミュニケーション能力、人間力、倫理観がある人材です。当学園の学生は、「ヤバイ」とか「マジ」とかいった品のない言葉は使いませんし、挨拶はもちろん、社会で当たり前とされることが当たり前にできるので、評価が高いのだと思います。
また、リーダーシップが取れることも重要なポイントです。教育の一環として団体訓練を行っているのですが、指示を出す立場と指示を受ける立場を交代でやると、個人として団体を動かすことも、団体に入って個人として行動することができるようになります。団体訓練をすると、指示を受けないと何もできない人間になるのではないかと言われますが、実際は逆で、リーダー的な人材に育つんですね。即戦力としてすぐに職場に馴染んで仕事もできるので、求人が殺到するのも頷けます。
—いずれは青梅を引き払って能登に戻られるのですか。
梅澤 今のところいつ帰れるかは全く目処が立っていません。実際、石川キャンパスは災害支援の拠点になっていますから、校舎等の修復は支援者全員がいなくなってからになると思われます。なので、修復が修了してから能登に戻るかどうかの判断となります。今はとにかく元の教育の状態に戻すことに苦心しているところです。
日本の航空業界は、世界の航空先進国である欧米に大きく遅れをとっています。欧米と同じようなライセンス制度にし、同じような教育をすれば良かったのですが、日本独自のライセンスを作ってしまったので、パイロットにしても整備士にしても、日本のライセンスでは世界に通用しないんですね。
先日私は古希を迎えました。本当はとっくにリタイヤして良い年齢なのですがね。今は寛解していますが、実は昨年は大病を患いました。今年は元日早々大地震で被災しました。でも、こうして生きています。物質的にあれが燃えた、なくなったと言ってもまだ命があるから良いじゃないか。命ある限りこれから何があっても乗り越えられる、今はそんな気持ちでいます。
生き残ったということは、何かやるべきことがあるのだと思い、日本の航空業界を改革すること、優秀な人材を供給することに尽力したいと思っています。
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