アートでまちを元気にしたい。
倉庫空間をリノベーションしたミュージアムやギャラリー、カフェで話題の天王洲エリア。古くから物流の要として栄え、1980年代以降はオフィス街として再開発されたこのエリアを「アートの街」として生まれ変わらせたのが、1950年代からこの地に拠点を置く寺田倉庫株式会社だ。創業家の3代目、社長としては5代目となる同社代表取締役社長、寺田航平さんにお話をうかがった。
アートによって人を呼び込めれば、天王洲に賑わいが生まれるはず。
—いまや「アートの街」として注目される天王洲ですが、その先鞭をつけたのが寺田倉庫ではないでしょうか。もともとアートには興味があったのですか。
寺田 寺田倉庫は1970年代から多くのアート作品を預かり、保管する事業を行ってきました。50年近い歴史の中で、先代社長が2016年にギャラリーやスタジオを集積した「TERRADA ART COMPLEX I」をオープンさせ、アートに関わる様々な事業やサポートを始めていましたので、それを継承し、さらに発展させたというイメージです。私が寺田倉庫の社長に就任したのは2019年ですが、実はそれまではアートには造詣は深くなくて、美術館にもほとんど行ったことがなかったんじゃないかなあ。
—アートに関心がなかったことで、むしろ新たな観点でアートをビジネス展開できたのでは?
寺田 私は商社勤務や一部上場企業を創業した経験がありましたので、ビジネスモデルを考える時、そのビジネス全体を俯瞰して捉えるようにしているんですね。社長に就任するにあたり、美術館、ギャラリスト、アーティスト、コレクターなど様々な方と話をする機会を持ったんですが、「アートは面白い」と思いました。
日本の現代アート市場は900億円くらいですが、アメリカでは4兆円近いマーケットが存在しています。そこには住宅事情や教育など様々な要因があるのかもしれませんが、アメリカと日本の人口差は4倍もないのに、40倍以上のマーケット差というのはあまりに大きすぎる。
日本のアート市場をもっと拡大させるためには何をすればいいのかいうことを考え、会社の中でいくつかの目標、ビジョンを掲げました。その一つが“天王洲を世界一のアートシティにしよう”ということでした。
天王洲は1980年代に大きな開発が行われ、2000年にはオフィスビル街になりましたが、昼間人口5万人、夜間人口は2000人くらい。ランチには人が来るけど、ディナーの時間にはみんな帰ってしまうので飲食店が根付かず、閑散としたまちだったんですね。アートを一つのきっかけにして人を呼び込む仕掛けがあれば、このまちに賑わいが生まれるんじゃないかという思いもありました。それで、自社のイベントスペースを作ったり、アートイベントも積極的に誘致することにしたんです。
—先月末で終わりましたが「ゴッホ・アライブ展」、2021年の「バンクシーって誰?展」、22年の「鈴木敏夫とジブリ展」などは話題になりましたね。
寺田 外から人を呼び込む仕掛けを作って、訪れた人がアート施設を回りながら、まずは見ることから始めて、買っていく体験ができるエリアを作ろうと決めたのが2018年、約5年前です。今は年間100万人くらい人が訪れるまちになりました。
家業を継ぐために入社するも、8ヶ月で独立、起業。
—先ほど商社勤務や起業の経験があるとおっしゃいましたが、大学卒業後、すぐに寺田倉庫に入らなかったのはなぜですか。
寺田 当時はツッパっていたんでしょうね、親の会社になんか入れるかと(笑)。で、普通に就職活動をして、たまたま受かった三菱商事に勤めることになりました。実際に働き始めると、サラリーマンの世界で出世するには相当時間がかかるという現実が見えてきた。そんな時、父から再三再四「寺田倉庫に入らないか」と誘いを受けて、3代目として事業を引き継ぐつもりで入社しました。
ところが、入社した1999年、日本でもブロードバンドの先駆けとなるADSLのサービスが始まったり、NTTドコモがiモードをスタートさせたりとITバブルが起こったんです。データセンターの立地を探す企業が急増し、寺田倉庫にもいろんな会社からデータセンターを作りたいと依頼があって、だったら自ら起業したほうが面白いのではないかと思うに至り、入社8ヶ月で起業することにしました。
—株式会社ビットアイルですね。社内創業のような形だったのですか。
寺田 出資はしてもらいましたが、完全に独立した会社です。事業計画を立てると、従来の倉庫事業に比べ、坪あたりの売り上げは増加する見通しでしたが、10年間で500億円くらい投資しなければならない。寺田倉庫は非上場でさほど大きくはない会社です。新規事業のために500億円の出資は現実的ではないと考え、私も借金して出資し、投資家を募って創業しました。ただ、父はすごく背中を押してくれたので、それがなかったら起業はできなかったと思います。
—それが2013年には東証第一部(現東証プライム)に上場するまでになった。
寺田 データセンターはサーバーを預かる事業なので信用が大事なんですね。当時はNTT、KDDI、富士通、日立といった大手しかやってなくて、そこにベンチャーが斬り込んでいったわけですから、最初は相当苦労しました。でもベンチャーが次々に立ち上がっている時期だったので、そういう方を顧客にして共存共栄ですごく伸びたんです。
最終的には業界8位まで上がって、そこでTOBがかかり、事業を全て売却することにしました。事業が軌道に乗るまでは経営陣全員でそのアメリカの企業を支えようと考えていたので、3年半ほど勤めて、社員たちが馴染んだところで退職し、寺田倉庫に戻ってきたというわけです。
—それにしても、ITの世界にはそもそも親和性はあったのですか。
寺田 実は小学生の頃からパソコンオタクだったんです。父親が仕事を兼ねて購入した、当時発売されたばかりのNECのPC-8000が家にあって、1日5時間くらい触っていて、よく怒られたものです。
中学生の頃には自分でプログラミングしてゲームを作り、投稿したりもしていましたし、高校3年生から大学4年生までの5年間、ネット系のベンチャー企業でインターンをしていました。その時に新しく何かを生み出すことの面白さを目の当たりにしたこともあるんでしょうね。それまでの人生で経験した様々なことが、自分で創業するということにつながっていったように思います。
アートをキーワードに、地域のまちづくりに貢献したい。
—すっかり定着している宅配型のトランクルームですが、そのサービスの立ち上げにも関わっているとか。
寺田 ビットアイルのCEOとしてデータセンター事業に力を入れながらも、寺田倉庫の経営陣と話す機会は定期的に持っていましたので、ずっと伴走してきたという感じです。倉庫業は今後どうあるべきかという話をする中で、着目したのが宅配型トランクルームで、まさにビットアイルの東証一部上場の準備をしている2012年、「minikura」をスタートさせました。
それまでのいわゆる部屋型トランクルームは、出入りする廊下など共用部分が必要になるため、付近のマンションに比べて、坪あたりの単価はどうしても割高になる。そのため保管するのはアートやワインなど高価なものが主で、顧客は自ずと美術品収集家やワインコレクターなど富裕層になります。
一方で、オフシーズンの衣類やスキー用品など、ふだん使わないものを預けたいというニーズもありました。ふだん使わないものなら必ずしも近くのトランクルームに預ける必要はありませんから、土地代の低い地域でも保管できます。預けたものも1点1点撮影して「見える化」してあげれば、お客さんも安心できますよね。
おかげさまで「minikura」は大ヒットして、今も寺田倉庫の主力事業のひとつになっていますが、私も事業戦略やプロダクトデザインに関わったので、思い入れのある存在です。
—今は天王洲を中心としたビジネスモデルかと思いますが、他の地域への展開はお考えですか。
寺田 第一弾は京都です。京都は、京都市立芸術大学、京都芸術大学、京都精華大学と、大きな美術大学が3つもあり、また伝統文化のまちとしても長い歴史を持っています。つまりさまざまな芸術に関わる人が住むまちなんですね。
2024年夏に市立芸術大学内の一区画を借りて、そこにアトリエ空間を作って、アーティストが制作活動をスタートしますが、その先を見据えていて、いくつかのプロジェクトを考えています。
アートというのは、まちを彩るためにすごく大きな意味を持つと思います。まちづくり全体で考えると、いつ行ってもそこで何か行われていることに意味があって、アートをきっかけに若い人が集まってくるようになると、そこに住まう若者が現れ、コミュニティが生まれる。コミュニティができると、さらにそこに人が定着し始め、そして周りに飲食や宿泊といった様々なサービスが増えてきます。
その土地の歴史とか文化というのが正しいのかもしれませんが、その場所の土とか風にあった形で、アートというキーワードで企画を考えていくと、いろいろなプロジェクトを同時多発的に広げていけると思います。日本全国どこでもそれができるわけではないと思いますが、そこに集う意味をきちんと確立できれば、地域はまだまだ活性化できるのではないでしょうか。
昨今は、事業で成功した企業や個人が、自分の地元に対して何かを還元したいと、行政と組んでまちおこしをしたり、イベントを開催したりして、人を呼び込む仕掛けや仕組みをアートを絡めて立ち上げています。
我々はそれを天王洲で行ってきましたので、地域展開はこれからもやっていきたいと考えていますし、地域で何かお手伝いできることがあればぜひ参加したいと思っています。