日本人は、なぜ印象派が 好きなのか。
数学が得意で東北大学理学部数学科に進むも、そこでは哲学的、文学的な思考が必要なことから、気持ちは文学部へと傾いていった。絵を描くのは苦手だが、見るのは好き。不純な動機で進んだ西洋美術史科だが、印象派研究の第一人者に上り詰めた。実践女子大学名誉教授の島田紀夫さんにお話をうかがった。
サロン落選を経験した仲間で開いたグループ展が印象派の始まり。
—上野の森美術館で島田先生が日本側の監修をされた「モネ 連作の情景」が開かれています。そして来年1月からは「印象派 モネからアメリカへ ウスター美術館所蔵」も始まります。今なぜ印象派なのでしょう。
島田 来年が印象派の第1回グループ展が開催されて150年の節目だからだと思います。まずはどうして印象派が生まれたかということを説明しましょう。
印象派の画家たちが絵を描き始めた19世紀半ばは、画家が絵を発表する場はサロン―ルーブル美術館のサロン・カレという部屋で開いたのでそう呼ばれています―つまり官立美術学校なども経営している美術アカデミーが年に1度公募する官展しかなかったんですね。
彼らは戸外に出て写生をし、主に風景画を描いてサロンに応募するのですが、なかなか入選しない。なぜかというと、サロンは伝統的な基準で審査をしますから、アカデミーが教えるルネサンス以来のギリシャ神話やキリスト教といった神話画か宗教画、あるいは歴史上の大事件を描く歴史画でないと審査の対象にはならなかったんです。
—モネやルノワールもサロンに入選したことはあったかと。
島田 そう、時々入選したりするんですよ。それも彼らは嫌だったんでしょうね。それで、ともにサロン落選を経験した仲間たちで絵を発表しようと、1874年にパリで第1回グループ展を開くことにしたんです。当時は絵を展示する場所もないので、写真家の仕事場を借りてね。
このグループ展に対するアカデミーの批評はひどいもので、モネが出品した作品『印象、日の出』に対して、「彼が描いたのは印象であって、絵画作品ではない」と酷評。実は「印象派」というグループ名は、そんな皮肉から生まれたんですよ。
グループ展は1886年まで8回開かれるのですが、3回目くらいからは彼ら自身が「印象派である」と宣言するようになった。つまり、印象派の画家というのは、伝統的な絵画に反抗した人たちなんですよ。
—印象派は新しく誕生した芸術運動ということなのですね。
島田 そうです。描き方の点では、アカデミックな絵はギリシャ彫刻のように輪郭線をきちんと描くデッサンを非常に重視し、色に関する関心は薄かったのですが、印象派の画家たちは、描くものの輪郭や色ではなく、描く対象の周りの光や空気感をとらえようとしたんです。
そこに至るまでは、神話や宗教といったテーマは古臭く、神話画や宗教画の背景に描かれている風景画に関心が移ってきていたという200年くらいの歴史がある。要するに、銀行家や商人といった新興の富裕層にとっては、風景画のほうが自分の家に飾るべき絵画と受け止められたんですね。イエスの磔の絵はごめんだと。
絵を描かなくてもいい西洋美術史科の存在を知り、数学科から編入。
—東北大学の理学部を卒業して、畑違いの西洋美術史科に進むことにしたのはなぜですか。
島田 私は山梨県の県立甲府第一高等学校だったのですが、田舎なので東北大を受ける人が多く、数学が比較的できたので理学部に進むことにしたんです。実際に理学部数学科に行くと、計算能力だけでなく、哲学的、文学的な思考も必要になってきて、だんだんそこに惹かれていったんですね。
それで、理学部で大学院に行く気はなくなり、社会に出る気もないので、大学に残りたいがどうすればいいかと教務課に相談したところ、文学部に編入できるとアドバイスされたんです。大学院の文学部に進むこともできるし、3、4年の専門課程に編入することもできると。いずれにしても学科を決めなければダメだというので、文学部の2年生を主な対象にした学科説明会に参加しました。
そこで西洋美術史科に出合ったんです。絵を描くのは苦手ですが、絵を見るのは好きだったので、絵は描かなくて、絵を見ているだけでいいという学科があることを知って、本当にびっくり! もう一つ理由があって、学科の説明をした主任教授の村田潔という先生が、田舎っぽい先生が多い東北大の中にあって、非常にスマートでダンディな感じがして、そこに惹かれた。実は、そういう非常に不純な動機で西洋美術史科に進んだんです(笑)。
—学芸員になろうと思ったのではなくて?
島田 その頃は西洋美術を展示する美術館はそんなにありませんでしたから、美術館の学芸員といえば、日本美術の学芸員。だから美術館の学芸員になれるとは考えていませんでした。
—ご両親は反対されなかったのですか。
島田 特に反対はしませんでした。実家は農家で、田んぼもいっぱいあったのですが、農業も大変な時代になっていましたし、流石に帰って百姓をしろとは言わなかったです。それに一人っ子だったので、やりたいことをやっていいと。そういう意味では恵まれていたと思います。
—で、大学院を出てからはどうされたのですか。
島田 美術史学科の助手になりました。助手はたいてい2、3年で定年なのですが、私は5年もやったんです。東北大学も遅ればせながら学園紛争が始まり、卒業生が出てこないものですから、助手をやめられなくて。で、これ以上はダメという時に、嘉門安雄さんという方が、国立西洋美術館からブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館)に館長として移ってきて、学芸員を採りたいと。それで紹介されて採用してもらいました。
10年くらい経った頃、非常勤で教えていた実践女子大学が、日野市にキャンパスを移転するにあたって、文学部の中に新しい学科を新設することになり、それが美学美術史学科で学芸員コースをつくるという。そのためには日本美術、西洋美術それぞれに専任が必要ということで、結局25年も日野に通うことになりました。
山梨美術館の館長のお話は実践女子大学にいた時にいただのですが、非常勤嘱託で1週間に1度通えばよかったので、お引き受けすることにしました。甲府市に実家もあり、父も健在でしたので、親孝行も兼ねてね。
日本人画家よりモネやゴッホのほうが人気が高い日本は不思議な国。
—それにしても日本人は印象派が好きですよね。
島田 日本は明治維新で古い体制を壊し、近代化するわけですが、政治、社会、芸術、文化、いろいろな分野でモデルとしたのがヨーロッパでした。明治20(1889)年にフェノロサなどの外国人を招聘して上野に美術学校をつくるわけですが、最初は日本画のコースだけ。西洋絵画も勉強すべきだと、10年後くらいに洋画のコースも設けることになるのですが、その頃フランスで一番流行していたのが印象派。明治の末頃にはヨーロッパやアメリカの最新の流行はほぼ同時に日本に入ってくるようになっていましたから、印象派のことはその誕生の頃から知っていたんですね。
印象派は、風景や風俗という新しいジャンルで、しかも色彩を重視して描いていますから、純粋に「きれい」と感じますし、それまでのヨーロッパ絵画とは違って、宗教的、歴史的な教養がなくても理解できます。それに日本は中国の南画の影響がありましたから、風景画には馴染みがあった。だから日本人に非常に受け入れられたんでしょうね。
もっとも印象派が好きなのは日本人だけではなくて、キリスト教の西ヨーロッパ世界、非ヨーロッパの国々、イスラム教や仏教の国の人たちも同じなんですよ。
20世紀に入ってすぐに抽象絵画が登場すると、印象派はもう古いと言われましたが、そんなことはなくていまだに人気があります。逆に抽象絵画は誕生してから100年くらい経ちますが、印象派のような大衆的人気を得られていません。印象派と同じように神話や宗教をテーマにしているわけではないのに、本当に不思議です。印象派には独特な魅力があるのでしょうね。
—最後に印象に残っている仕事はどんなものですか。
島田 美術館というのは、本来コレクションがあって、それを保存し、展示するためのものだと思うんですね。
ブリヂストン美術館の創設者、石橋正二郎は昭和5(1930)年頃から、若くして夭折した同郷の画家・青木繁の作品中心に藤島武二など日本近代洋画の収集を始めます。そして戦後は、彼らがお手本としたフランスの画家たちの作品を精力的に購入、現在に続くコレクションを形成しました。
ですからブリヂストン美術館は基本的に常設展で、比較的余裕があったからできたのだと思うのですが、学芸員時代には、NHKの「日曜美術館」に呼ばれて西洋美術の解説をしたり、デパートなどを会場にして開催する展覧会にも携わりました。どれも思い出深い経験です。
もちろん美術館でも数年に一度、セザンヌとかモネ、ルノワールなどの作品を展示する特別展を企画します。どういうテーマでどういう作品を集め、どういうふうに展示しようかと考えている時はとても楽しいですね。実際に所蔵している美術館に交渉して、借りてくるのは大変ですが……。
2007年、日本で5番目の国立美術館として、コレクションを持たない美術館、国立新美術館が開館しました。その開館記念展が「大回顧展モネ 印象派の巨匠、その遺産」です。最近は伊藤若冲とかも人気のようですが、ゴッホ展とかルノワール展のほうが人が入るんですね。日本は不思議な国ですね。