良縁に恵まれて今がある。
小学6年生の時、隣の家の棟上げを見て、その美しさに感動。大工になろうと決心した。ところが18歳の時、縁あって江戸指物の道へ。江戸指物のなかでも最上級の素材である御蔵島の桑を使い、その杢目を生かした精緻で美しい道具を生み出している江戸指物師、戸田敏夫さんにお話をうかがった。
隣の家の棟上を見て大工に憧れるも、縁あって江戸指物の世界へ。
—江戸指物は、材木から板や柱を木取り、金釘を使わずに精密に組み立てるそうですが、すべての作業をこのスペースでされているのですか。
戸田 そうですね。去年、一昨年は市川團十郎さんの襲名に合わせて100㎏くらいの楽屋鏡台を作りました。椅子に座って使いたいということで、座ってもらって寸法を取っていったら、高さがぴったり72㎝。整理机というのは72㎝なんですよ。不思議なもので。
だから工夫してやらないと。親の代からやっている職人というのは、もっと広いところでやっていますけど、私みたいなはぐれものは(笑)、このスペースです。
—基本的に代々やられている方が多いのですか。
戸田 決まりはありませんが、ほとんどの人はそうです。今は好きで入って、東京で独立してやっていくのは100%無理じゃないかな、土地も高いですから。
—はぐれものとおっしゃいましたけど、この世界に入られたのはどうしてですか。
戸田 私は千葉県東金市という小さな商業町の出身でして、隣が大工だったんですよ。小学6年の時に、隣の家の棟上を見て、その姿に惚れ込んでしまいましてね。農家の長男だったんですが、絶対大工になりたいと。で、職業訓練校の木工科に行ったんです。
江戸指物の世界へは、学校の先生が導いてくれました。18歳の時、「大工もいいけど、東京にはこういうすごいところもあるんだ」と言われて、連れてこられたのが親方のところ。後で考えれば面接だったんでしょう。親方には既に何人か弟子はいたんですが、もう一人自分のところに向けてくれないかと頼まれていたらしい。それが幸運でしたね、いい親方に出会いました。
—親方は厳しかったですか。
戸田 厳しいどころじゃないですね(笑)。生活面ではすごく優しいですけど、仕事に対しては妥協なんて文字はありませんので。
—手取り足取り教えるというより、目で盗めという?
戸田 それが違うんですよ。隣に座らせて、徹底的に教え込まれました。
18歳で弟子入りして、真っ先に作るのは毎日使う箸なんです。それからティッシュを入れる箱とか、屑箱とかね。ただ、弟子に入ったばかりの頃は、削り一つでも難儀なんですよ。職人としていきなり認められるわけではありませんから、そうやって安価のもの、手離れのいいものを、数をこさえながら、腕を磨いたんです。
我々の修業時代は問屋さんがいくつかあって、多少出来が悪くても問屋さんが引き取って、換金してくれましたが、今は問屋さんがないから、作るものはだいたい一品物。一品物では職人は育ちません。後継者を育てにくい時代になってしまいました。
私は、環境にも、先生にも、親方にも、人にも、恵まれた。そういう人との出会いがあって今に至っているんでしょうね。
ねばりがあって、つやもある。麻薬的な要素を持つ島桑にこだわる。
—江戸指物は、一人の人が最初から最後まで全部作るのですか。
戸田 漆の塗り以外は、そうです。だから私は今でも塗師屋さんに頼んでいます。
オイルショックの後のことですが、ほとんどの職人たちは仕事がなくなったんです。すると経費削減のために、今までやっていなかった漆塗りまで自分でやろうとする職人が出てきた。私はそれが許せなくてね。
塗師屋さんはそれで生計立ててるわけでしょう。その形態だけは崩したくなかった。第一、餅は餅屋で塗師屋さんがやるような塗りは私にはできません。私が木地をしっかり作らなければ、削らなければ、磨かなければ、いかに有名な腕のいい塗師屋さんでもきれいには仕上がらない。お互いのコンビネーション、掛合いなんです。
—品物は一つ一つ仕上げていくのですか。
戸田 そうです。並行してはやらない。
—では、注文してもだいぶ待たなければいけないわけですね(笑)。
戸田 この間注文に来られたある大会社の会長さんが、紹介してくれた方から言われたんですって、「あの職人は最低3~4年、5年は覚悟しなさい」と。みなさん、だいたい覚悟して来てるんじゃないのかな。
—そうでしょうね(笑)。
戸田 だから独立してから今に至るまでキャンセルは一度もないです。ただ一人、交通事故で亡くなられたのですが、息子さんが引き継いで、今もお客さんになってくれています。
こういう一介の職人というのは、そういう人たちに支えられているんじゃないかな。それが日本の手仕事の文化なんだと思います。
—御蔵島の桑の木(島桑)にこだわっているそうですが、普通の桑と何が違うのですか。
戸田 まず、そのしっとり感。桑は日本でいちばん硬い素材の1番、2番なんですが、ねばりがあるんです。そしてつやもある。何年たっても真っ黒にはならない。べっ甲色で止まるんです。お客さんも一度島桑のものを使っちゃうと、他のものでは満足できない。麻薬的な要素を持っているかもしれません。
—桑の木は硬いとおっしゃいましたが、使う道具は違うものなのですか。
戸田 全然違いますね。鉋でも研ぎ方が違うんですよ。よく鉋はきれいにまっすぐ研げと言いますが、鋭利に研ぎすぎると硬い桑は先がぶれるんです。だから少し丸っぽく研ぐ。そうすると腰が強くなるんです。ここにある鉋は全部手作りなんですよ。
—ご自分で作られたのですか。
戸田 そうです。それぞれ幅が違うでしょう。同じようなものでもみんな違うんですよ。斜めのがあったり。丸いのがあったり……。必要に応じて作ってきたら全部で130くらいになっちゃった(笑)。
全国の木工を比較してみても、指物というのは特に薄いんです。それはなぜかというと、江戸の文化は粋の世界でしょう。例えば引出しも薄いです。これをあと1㎜厚くしたら野暮になっちゃう。裏地に凝るとか、そういう見えないところに気をつかうという枠の文化は、いまだに息づいていますね。
伝統を継承しているだけではつまらない。好奇心と研究心をもって工夫することが大切。
—江戸指物を作り続けてきて、一番楽しいのはどんなことですか。
戸田 やっぱり開拓ですね。無のところから何かを生み出すのって楽しい。特に新しい技術が見つかった時は、震えますね。その一つが、私が独立した昭和60年に考えた技術なんですが、今では組合の仲間はみんな使っています。
—どういう技術なんですか?
戸田 江戸指物はいろいろな「仕口(しぐち)」を使って組み立てるんですね。仕口とは、木材を組み合わせるために削り出した「ほぞ」という突起と、それを差し込むためのほぞ穴で木材を組み合わせる仕組みのことなんですが、昭和60年というと、どこの家にもエアコンがあるというわけではありませんでした。でも、これからはエアコンが欠かせなくなる。エアコンを使うと乾燥して、木は水分が奪われて収縮してしまうから、これまでのようにしっかり固定する仕口では、木が割れてしまうだろうと思ったんです。そこで発想を転換して、あえて木が動く遊びができるように仕口を工夫しました。
当時だったら部分特許が取れたと思いますが、私はそういうのはあまり好まないので、みんなオープンにしています。親方もそういう方でしたしね。
—伝統の技術といえども常に進化しているのですね。
戸田 伝統というのは受け継がれるものですが、だからと言って継承しているだけではつまらないじゃないですか。デザインにしても技術にしても、常に好奇心と研究心をもって、工夫していくことが大切だと思います。だから同じものは絶対作りません。
今思うと、親方は弟子に入ってすぐ独立を意識させていました。二十歳になると親方の部屋に呼ばれて、仕事を覚えていきたいか、お金を稼ぎたいか聞かれるんです。他の職人たちはお金を稼ぐほうを選びましたが、私は仕事を覚えるほうを選びました。
すてきな親方でしたから顧客も多くて、オイルショックの時ですら、お客さんが並んでいましたから、その選択肢があったわけです。私は理想主義者だったので、仕事を覚えたいというのは正直な気持ちでした。
とは言いながらも、一日おきに朝帰りしてたんですけどね。
—何をされてたのですか。
戸田 バーが好きでしてね、葉巻をふかしながらバーボンをやるんです。バーには錚々たる連中が来ていて、葉巻について侃侃諤諤やっているんです。
独立してすぐ、ある会社の社長さんに六本木のシガーバーに連れて行ってもらう機会があったんですが、その時の経験がすごく役に立ちました。かみさんに言ったんですよ、「時には遊ばなきゃいかんな(笑)」。
もちろん、仕事に響くようなことは絶対にしませよ。私は人一倍競争心は強かったと思います。当時、銀座にあった問屋さんから、踊りの教室用の姿見を年に何十本と頼まれるんです。それを5人の職人が30本ずつ作るんですが、先輩と同じにはやりたくない。1日でも1時間でも先輩より早くやらないと気がすまない。そうやって切磋琢磨して、腕を磨いてきたんです。
もちろん速いからと言って粗末ではだめですよ。でも、結果的に仕事が速い人は、仕事がきれいです。同じところに何度も手をかけないんです。おもしろい現象ですね。
あるお客さんの口癖ですが、「誰にでも縁は与えられる。でも良縁となるのはそうはない」。私は今、その言葉を身をもって実感しています。
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