産業界のロスを減少させることで、社会や環境に貢献したい
「ドライルーブ」とは、カメラのシャッターやスマホのスイッチ、自動車のワイパーなど、オイルやグリースが使えない箇所に使用される固体被膜潤滑剤のことだ。東洋ドライルーブ株式会社は、昭和37年、時代に先駆け、ドライルーブの専門会社としてスタート。現在では研究開発から製造、加工までを一貫して行うメーカーとして、存在感を放っている。同社代表取締役社長、飯野光彦さんにお話をうかがった。
スマホ、カメラ、自動車……、意外なところに使われている被膜の素材と技術。
—固体被膜潤滑剤「ドライルーブ」専門の会社ということですが、ドライルーブとはどういうものなのですか。
飯野 DRILUBE(R)はDRY SOLID FILM L UBRICANTsが由来の造語で、ドライ(乾燥)、ルーブ(潤滑)、つまり液体ではなく固体の潤滑被膜という意味です。オイルやグリースの潤滑減摩性とコーティング被膜の保護耐食性を兼備しているので、密着性に優れているんですね。
そのドライルーブの研究開発から、製品製造・コーティング加工・販売までを自社で一貫して行っている点が当社の強みです。被膜を作るという技術と、被膜を使って加工し、定着させるという技術をセットで提供している企業は少ないですからね。世界的にも。
—具体的にはどういうところに使われているのですか。
飯野 潤滑と言いますと、普通はウェットなオイルやグリースを使いますが、それらが使えない箇所でも滑らせたいとか機能を持たせたいというものが、身のまわりに意外とあるんですよ。
例えばカメラのシャッター。オイル自体が汚れになってしまいますから、使いたくないですよね。オイルというのは、同じところで同じような感覚で使えば硬さは変わりませんが、寒いところや暑いところに行ったり、山を登ったりすると、オイルの粘度が変わってしまいますから、シャッタースピードそのものが変わってしまう。ですから、そういうところは乾式で、被膜で滑らせることになるんです。
それから、自動車のワイパーのゴム。ガラスとゴムという滑らない素材同士を滑らせるために用いられます。アクセル部品も、被膜を施さないと10万回ぐらいの作動でアクセルワークに変化が出てくるんですが、当社の被膜を施工すると8百万回もの踏み込みに耐えられるようになります。タクシーのアクセルの寿命がだいたい4百万回なので、実質、半永久的に使えるというわけですね。耐久性が高まり、燃費が向上するということは、社会や環境にも貢献できるということです。
ほかにもスマートフォンの横のスイッチとか、アルミ製EGR(排出ガス再循環装置)ハウジングの通気部分に施す腐食防止の被膜などにも使われていますね。
—本当にいろんなところで使われているのですね。
飯野 会社がスタートした時は潤滑膜だけでしたが、今では発熱・放熱・断熱性、絶縁・導電・電磁波シールド、撥水・撥油性、耐薬品・耐食性、光学用途、速乾性潤滑被膜、高硬度潤滑被膜などの特性を持った被膜を開発して、いろんな業界に使っていただいています。
まだまだ開発の余地はあると思うので、産業界の次世代製品の開発に寄与できると思います。そして環境に配慮し、産業界のロスを減少させることで、未来の安全で豊かな社会を支えていけたらいいなあと思っています。
20代半ばで事業を継承。反対されながらも事業を拡大。
—この固体被膜潤滑剤はいつ頃からあるのですか。
飯野 昭和37(1962)年、父がアメリカDRILUBE社と技術提携し、材料を輸入したのが始まりです。30年代というのは、化学の世界でいろんなものが海外から入ってきた時代。こげないフライパンのテフロン加工や各種プラスチック製品などもそうですね。初めは、加工と塗装は外注していたので、スタートは輸入商社だったんですよ。
—初めからお父様の会社に?
飯野 金融関係に勤めていました。ところが55年、父から会社に来いと言われ、3か月間、コーティングをするコーターのところで修業することになったんです。3か月があと数日で終わるという時に父が脳梗塞で倒れ、1年間入院。リハビリをして退院はしたんですが、会社に出てきてもあまり仕事をすることはなかったんですね。
今の自宅からスタートしたような小さな会社ですから、創業してから十何年、傍でずっと見てはいましたが、父と一緒に仕事をしたという経験はないんですよ。社員17、18人とはいえ、1年後にはトップとして引っ張っていかなければならない立場になってしまいました。26、27歳だったかな。前職が技術系じゃなくて、金融関係の仕事だったから、お客さんはみんな優しかったですよ。
—製造を手がけるようになったのは何故ですか。
飯野 材料を買い付けていたアメリカの会社の取引先はボーイングとかNASA、軍需関係。一方、当社が手がけるのは、カメラとかオーディオ製品。業界としては全く違うので、お客さんの要求も違うんですね。異質な要求を都度アメリカに問い合わせ、開発を依頼しても、なかなかこちらの言うとおりには動いてくれない。やはり自分で材料の開発もやらなきゃダメだと思ったんです。
それで相模原に材料を作るための小さい研究所を作り、その近くに加工工場を作って、製造業が始まりました。それが30代前半の時ですね。
—思い切った決断ですね。
飯野 反対する人は常にいるわけです、そんなことやって大丈夫なのかって。父も言っていました。でも、注文が入ってから工場を建てたのでは間に合わないじゃないですか。だから、みんなに反対されながら、決断するんですよ(笑)。
—今は国内だけでなく海外にも進出されていますね。
飯野 海外は2002年の中国がスタートですから、早いほうではないでしょうか。どこに進出するにしても、そろそろかな、まだ早いかなとか、非常に悩みます。進出してからも、あと2年早かったら良かったのにとか、こんなに早く出るべきじゃなかったとか、いろいろありますよ。
2010年にタイに進出した時などは、工場を建て設備も入れ、人も雇い、さあこれからという時に洪水ですからね。タイは高低差が少なく、洪水のスピードが遅いので土嚢を積むことができ、機械類は被害を免れましたが、半年以上は稼働できませんでしたからね。今ではタイの工場は稼ぎ頭の一つになっていますが、そんなこともあって大変でした。もっとも、どこも大変なことは大変、スタートした時はね。
良い年のとり方をしている人に授与される グッドエイジャー賞を受賞
—本業もさることながら、地元世田谷区の北沢法人会会長や東京商工会議所世田谷支部の副会長など、いろんな役職に就かれていますね。
飯野 北沢法人会ではせたがや梅まつりのイベントに参加したり、北澤八幡宮のお祭りではたこ焼きを焼いていますよ(笑)。
ここで育っていますし、会社をやっていますから、地元意識は強いと思います。だから地元で頼まれると、お手伝いしようかとなる。それは、会社のためということもあるし、自分の知識を得るためということもあって、会社にとっても自分にとっても不要なことってないんですよ。何らかの情報は入ってきますからね。
例えば会社のロボット化とかIoT化を進めるにはどこに頼んだらいいかとか、どういう助成金を使ったらいいかだとか。そういう情報は、商工会議所は非常に早いですから、有効に使えていると思います。
—ところで、2015年にグッドエイジャー賞というのを受賞したそうですね。どんな賞なのですか。
飯野 一般社団法人日本メンズファッション協会というところがあって、ある日、会社に電話がかかってきたんです、賞のことで。最初はいかがわしい話かと思ったんですけど(笑)、事務局の方の説明によると、年齢を重ねても人生を楽しみ、常に未来を見つめ、これから先も色々なことに挑戦してみようという、バイタリティ溢れる人を「グッドエイジャー賞」として顕彰しているとのことでしたので、ありがたくお受けすることにしました。
2003年にスタートして、有名な方がたくさん選ばれているんですが、2014年から経済界からも一人選出するということになったらしく、2年目になぜか私が選ばれたんです。地元での活動とか、法人会や商工会議所の活動とかを総合的に見て判断されたのかなと思ったんですが、授賞式に行ってみたら、メンズファッション協会の会長が渋谷法人会の副会長で、顔馴染みだった(笑)。
—20代半ばで会社を継いで、会社を海外展開するまでに育て、しかも地元にも貢献している。良い年の取り方をされていると思います。
飯野 少林寺拳法でしょうか。大学の部活と並行して、埼玉の道場に通いました。そこの指導者は人格がしっかりしていて、技もそうですが、教育の仕方、育て方もすばらしく、どんどんのめり込んでいきました。
大学でも社会に出てからも続けていましたが、少しずつ積み上げていかないと結果は出ないということを、少林寺拳法を通じて学んだ気がします。何事もそうかもしれませんが、少しずつ少しずつ継続していかないと絶対にうまくはなりません。
その考え方は、何か迷った時に立ち返れる場所であり、判断する基本なっていると思います。
—判断が間違えていなかったから、今があるのですね。
飯野 いや、たくさん間違っていますよ(笑)。いくつかのことがあって、その中で成功したものが残り、失敗したものはなくなったということです。でも、成功したものが残っていればまたチャレンジができますからね。
だから失敗したことのリストは残しています。それはいつかできるようになるかもしれないし、ほかで活きることもあるでしょうし、そこから何か新しいものが生まれるかもしれないですからね。失敗リストは大事です。