小さい国でも国際社会に貢献できる。

  • インタビュー:津久井 美智江  撮影:宮田 知明

プレアビヒア日本協会 理事長 森田徳忠さん

 第二次世界大戦後のアジア・太平洋地域における経済開発支援を目的に設立されたアジア開発銀行に23年間勤務。主にインドアジア大陸、メコン地域を舞台にプロジェクトの立案と貸出業務に従事。その一つ、「大メコン圏(GMS)開発プログラム」はインドシナ戦争で生じた地域内での抗争を忘れて、地域全体の開発を進めていこうというもので、最も成功したプログラムと評価されている。GMSを構想し、成功に導いたキーマン、プレアビヒア日本協会理事長の森田徳忠さんにお話をうかがった。

インドシナ戦争の終焉を視野に、メコン地域の安定と平和の基礎構築に邁進

—アジア開発銀行(Asian Development Bank=ADB)に入行された動機は?草創期でご苦労もあったと思います。

森田 ADBには日本輸出入銀行からの出向です。留学先のアメリカで大病をしましてね。春・夏の休みを使って自分で稼ぎながらの通学でしたが、それが全然稼げなくて、万事休す。日本に帰る金もなくなった。

 ようやくドイツの貨物船の甲板係の仕事を得て、いろんなところを回りながら日本にたどり着きました。今でいう就活にギリギリの時期でしたが、幸運にも日本輸出入銀行は間に合いました(笑)。

 それから6年、ADBが日本からも若手を漸次採用することになって、家族揃って急きょADB本部のあるマニラ住まいになりました。第二次インドシナ戦争がようやく終わろうとしている時です。

 当時のADBはスタッフ数がまだ少なく、200人台だったと記憶しています。私みたいな若造でもどんどん仕事をさせてもらえました。ADBの職員は加盟国からの寄せ集めでしたが、皆これからのアジアの経済開発を任されたような気持ちで、本当に一生懸命働きました。

—水が合ったのですね。

森田 そうですね。世界銀行の後塵を拝して誕生したADBですが、アジア諸国から見れば初めての“おらが銀行”でしたし、どこの国に行ってもその気持ちが伝わってきました。苦しいけれど面白い4年間でした。

 出向が終わって輸出入銀に戻ってから5年後のことです。人事部長が「森田君、今マニラから電話があってね。ADBに戻る気はある?」「いいですよ」という3分間程のやり取りで、2回目のマニラ行となりました。

 ただADBに戻ったところで、本当に役に立てるのか、深く考えないまま、飛行機に乗っていました。どこにいてもやることは同じです。“水”と、それに付け加えれば“ご縁”の両方を強く感じたんでしょうね。私にはそれだけで十分でした。

 当初の10年は未だADBの足場固めの時代でした。長年アジアでも実績を積み重ねてきた世界銀行は欧米が主導する横綱、アジア主導のADBは常に下に見られて悔しい思いをしていました。世界銀行には絶対に負けられないという思いが我々を育てたと言っても過言ではないでしょう。アジアのことはアジアでという強い思いがあったのだと思います。

 そのうち世界銀行ができないことを我々は一つずつ積み重ねて行くことができました。地元の利を生かした感性とビジョンの活用です。大メコン圏(GMS)開発プログラムもそのうちの一つです。

 ADBの渡辺武初代総裁(財務省出身)は“ADBアジアのホームドクターたれ”という言葉を残されました。言葉を変えて言えば、君たちはまず自らの足元を見て進め、そして国々の歴史と文化、民族、地勢などの特徴を捉え、アジアの友人たちが進むべき道に手を貸しなさい、という大変なメッセージと私なりに理解しました。

プレアビヒア寺院(世界遺産)のある村にて撮影

旧ポルポト軍の重要拠点だったプレアビヒア寺院(世界遺産)のある村。2008年からサポートしてきた

民族や国境を越えて、互いに必要とし合う関係をつくりたい。

—具体的にはどんなことをされたのですか。

森田 ラオスの電力発電支援です。ラオスは小国であり、そして当時は最貧国のひとつでした。インドシナ戦争当時ラオスはソ連の陣営下にあり、またタイはアメリカと一緒になってインドシナ戦争の最前線にありました。

 その時私はラオスの首都ビエンチャンのホテルに泊まっていたのですが、間の悪いことにタイ側から撃ってきた機関砲3発が私の隣の部屋に飛び込んできました。また迫撃砲2弾がホテルの裏側に着弾し大騒ぎでした。

 そんな時代のことであり、しかもラオスからの要請となると私としては握りつぶしたくない宿題です。国内市場向けの小型発電所という計画でしたが、それでは経済性が出ません。多少大型化して隣国のタイに余剰電力を買ってもらう以外にプロジェクトを救う道はない。厳しい環境下でしたが、このプロジェクトは成功し、ラオスの電力が後のタイの経済発展に寄与することになりました。砲火を交えている国の間でも、やり方によっては国境を隔てた国同士が政治と経済を切り離しながら前に進むことができる、ということを証明できたわけです。

 これが後にGMSプログラムを進めようという提案に関係諸国が前向きな姿勢を見せた大きな理由です。地域の人たちが、民族や国境を越えて、互いに経済的に必要とし合う関係をつくること。具体的には、物理的につながる道路や鉄道、送電線網、通信網、などを骨子とするものでした。

チュアン首相と撮影

メコン地域でタイが唯一の西側陣営の国だった。チュアン首相が軍部の出ではなく議会政治の人だったことが、GMSの流れを生み出す上で神の演出のように思えたという

—GMSプログラムの実施をメコン諸国がサポートした理由が、他にもあるとすれば、それは何だったのでしょう。

森田 それは長期にわたるインドシナ戦争に巻き込まれたメコンの国々が、飢えから逃れ、早く平和な生活に戻りたいという願いと、将来への希望がそこにあったからでしょうね。

 その頃カンボジアは未だポルポト勢力が力を持っていました。そのためカンボジアに対するGMS参加の呼びかけをしたのは、1992年のパリでの和平協定調印を待ってのことです。

 その頃カンボジアには4つの政府がありました。フンセン派政府の首相は「ADBが提案していることは、メコン地域を道路や送電線、通信網で結び、お互いに協力しながら進もう、ということですね。平和が来れば、私は軍事費を大幅に削ることが可能になる。その資金で、長年苦労した農村を豊かにし、また人材育成に力を注ぎたい。やりましょう」と答えました。当時39歳だった彼が言った言葉が、この地域の人々の気持ちを代弁していたと考えて良いのではないでしょうか。

 自分が信じているのは、「たとえそれが小国であっても立派に生きる道はあるし、世の中に貢献することも可能だ」ということです。仮説を立て、基本を一つずつ地道に潰していけば、必ずそこに到達すると信じています。

1994年ハノイで開催されたGMS会議

1993年のベトナムの経済封鎖解除を受けて、翌年のGMS会議はハノイで開催された。右がADB森田氏

ライフワークは、文化や歴史遺産を守る百の村をつくること。

—GMSプログラムを担っていく、運営のためのフレームワークとその理念についてお聞きしたいのですが。

森田 この地域の人が、互いに必要とし合う関係をつくるためのプラットフォームは2つあります。

 まず目に見えるもの、物理的につながる道路や橋、鉄道、送電線網、通信網などが必要です。例えば、ベトナムの主要港からラオス、タイを経てミャンマーに繋がる道路、中国からラオス、タイを経てマレーシア・シンガポール間の既存道路をつなぐリングロード等が分かりやすいでしょう。

 そのほかにも幾多の幹線がありますが、そこから枝を出して、さらにそれぞれの地方とつなげたり、それぞれの国がお互いに相談してつくった道も多いので、私はトータルで何千キロになっているのか見当もつきません。もともと企画した路線のほかにも、地元同士で考えて実施している道路網が数多くできているということは、ファミリー・ツリーがどんどん広がっているということ。感無量です。

—運営の理念としてどんなことをされたのですか。

森田 プログラム実施の土台となる「協定を作る」のが国際的に考えられるやり方ですが、GMSではこれをあえて作らないことを提案しました。理由は簡単です。もし作るとすればそのプロセスの中で、条文の文言について果てしない議論を尽くすことになります。このやり方は、お互いに仲良くなろうとする決意を根底から破壊して、もとの敵対関係をつくり出す可能性がある。何が大事かといえば、まず平和を推し進めることです。もしも協定を作った場合、インドシナ紛争の如き代理戦争のような方向に行く可能性があると見たのです。

 次は、多数決を取らない。多数決は分かりやすいのですが、反対側に拒否権を与えることになり、平和のための地域協力が頓挫する懸念があります。要は賛成する国が2つ以上あれば、やってみる。反対した国でも、後で気が変われば一緒にやりましょうということです。

 3つめは、ヘッドクォーターは作らない。誘致合戦は国家間に軋轢を生むというのが理由です。最も重要なのは、「GMSの主役はあなた方です。ADBは事務方です」というメッセージですが、これがメコン諸国の当事者意識を高める働きをしました。

 これらの基本方針はマニラで開かれた第1回の会議ですべての国にサポートされました。仏教という共通の文化と平和への強い願望が、ほかでは類を見ないメコン一家を形成する大きな背景となり、この良識を支えてくれたと考えています。

—いろいろな試みを支えた理念は何でしょうか。

森田 我々は欧米という土壌で育った理念だけが合理的と考えがちです。しかし我々の文化を育んだアジアの知恵のほうがより有効な場合もあるということでしょう。50年超にわたるGMS計画の実施期間にメコン諸国が手にした大事なものは、それに携わった多くの人たち、特に官民合わせた青年層の育成でした。その世代が今の社会で活躍しています。平和への願いが産んだ大切な産物です。

 そう信じて今カンボジアの仲間と“100 Village Project”—百か村プロジェクトを立ち上げているところです。農村開発と文化遺産の歴史的なルートの組み合わせを柱にした試みです。100 Village Projectが将来地方の成長センターとして伸びていくとすれば、GMSと同じようなインパクトがあるものと期待しています。たとえ初めは小さな試みであっても、です

(インタビュー/津久井 美智江)

情報をお寄せください

NEWS TOKYOでは、あなたの街のイベントや情報を募集しております。お気軽に編集部宛リリースをお送りください。皆様からの情報をお待ちしております。