笛は、吹く人の音になる。

  • インタビュー:津久井 美智江  撮影:宮田 知明

能楽師 一噌流笛方(能楽一噌流十四世宗家) 一噌 庸二さん

 初代中村七郎左衛門が一家を立てたのは戦国時代の永禄年間。2代目中村備中入道が笛の名手で、秀吉がその笛を聴いて一噌の名前をつけたという。吹き込み鋭く、荒削りで力強い表現が特徴の能楽師、一噌流笛方の一噌庸二さんにお話をうかがった。

一噌流はどちらかというと粗削り、一刀流みたいに感じで、強く吹くのが特徴。

—一噌流の笛は江戸時代、江戸表でたいへん流行したそうですが、一噌流はお能ができた頃からあったのですか。

一噌 初代は永禄年間(1558〜1570)。能の始まりは室町時代の始めの頃ですから、そこまではいきません。永禄年間といいますと、秀吉の頃ですね。

 初代は中村七郎左衛門といい、2代目は中村備中入道というんですが、秀吉と仲が良かったんです。

—お能が好きでしたものね、秀吉も信長も。

一噌 2代目は笛がすごく上手な人でね、秀吉がその笛を聴いて、「おまえの笛はずいぶんやかましいな」と言って、一噌という名前をつけてくれたといいます。

 一噌の「噌」というのは笛の調子を表しているんですよ。辞書で引くと、「調子かまびすし」。どういう意味かというと、やかましい感じですね。そのような吹き方をしていたらしいです。それで似斎一噌と称したことから、一噌と名のるようになったんです。

 それからもう一人、千利休ともすごく仲がよくて、利休のお茶会には必ず出ていました。

—それは笛方として出ていたのですか。

一噌 お茶で。利休の昔の日記を見ると秀吉の名前のすぐそばに2代目の名前があるんですよ。茶人としても優れていたらしいです。備中入道の備中は、もともとは備中屋という屋号だったと思うんです。だから古い書物では一噌といわないで備中屋がどうのこうのと書いてあるんですよ。

—では、かまびすしいというのが一噌流の特徴ですか。

一噌 そうですね。芸はどちらかというと粗削り、良い言い方をすると一刀流みたいな感じで、吹き込みが鋭いのが特徴だと思います。

 囃子方の中で笛だけメロディがありますから、メロディの流れが流派によってちょっと違うんですね。ただ、昔は流派なんてなくて、人ですよね。最初に上手な人がいて、その弟子が師匠と少し変わった吹き方をしようとか、そういうので流派ができていったんだと思います。

—笛によっても音色とかは違うのですか。

一噌 変わらないですね。

—確か笛の作り方は3種類あるとうかがったことがあります。

一噌 丸竹といってそのまま穴をあけるのと、返し竹といってひっくり返すのと、それから寄せ竹といって、バラバラにしてもう一回つなぐの。それに樺(桜の表皮を薄く裂いて糸状につないだもの)を巻いて、漆や朱でぬりかためるんです。

—やはり一本一本違いがあるものなのですか。

一噌 竹によって太さがちがいますから、細い笛は甲高いとか、そういう違いはありますが、基本は同じです。

 おもしろいのはね、誰かの笛を僕が吹くと僕の音、僕の笛を誰かが吹くとその人の音になるんです。楽器の音じゃなくてその人の音になっちゃう。

—おもしろいですね。同じ笛を吹いたら同じ音になりそうなものなのに。

一噌 それぞれに持っている音というのがあるんでしょうね。

国立能楽堂にて「井筒」を演奏する一噌氏 写真/前島吉裕

文化は国が生まれた背景がわかる国そのものだと思います。

—伝統ある一噌の宗家に生まれて、その跡を継ぐということは自然なことだったのですか。

一噌 僕が4歳の時に親父が死んでるんですよ、戦争で。ですから親戚の人に育てられたんです。その親戚から「おまえは笛をしなくちゃいけない」と言われたこともありましたしね。いろんな人の助けを受けて、今日に至っているわけです。

—笛はどなたに習われたのですか。

一噌 母の妹の旦那が笛方だったので、その人にずっと習っていました。初舞台は10歳の時で、中学に入った時には養成会(今の国立能楽堂養成課の前身)ができていたので、学校が終わった後、1週間のうち5日間はそこに通っていました。笛だけじゃなく、いろんなことを勉強しましたね。

—それは能楽協会が作ったのですか。

一噌 そうです。戦後、このままだと能が滅びてしまうというので国が補助金を出して、親が能をやっていた子どもを目安に集めてやっていたんです。昔はそれぞれの師匠の家に稽古に行っていたのが、師匠が1か所に来て教えるということになったんですね。

—伝統を受け継いで後世に残していくのは大変なことですね。

一噌 そうですね。でもね、発祥した室町時代のそのままに能が伝わっているとは思わないんですよね。大筋では合っていると思いますけど、中にはこういうふうにしたほうがいいと変わったこともあるかもしれません。

—時代に合わせて変わってきているということですね。江戸表で一噌流の笛が流行したように、流行り廃りがある。

一噌 シテ方にもあるんですよ。観世流がはやった時期とか、宝生流がはやった時期とかね。どうしてかというと、江戸時代は、大名は自分の屋敷に能舞台があって、みんな能の稽古をしていましたでしょう。将軍が「俺はこっちのほうがいい」と言うと、大名がみんなそっちの流派に移っちゃう。

—能は将軍というか大名に守られていたのですね。

一噌 そう、幕末まではね。徳川から禄をもらって能をやっていましたけども、能だけやっていたわけじゃないんですよ。いろんなことをやっていたんです。例えばうちなんかは御廊下番(笑)。普段はそこに出勤していて、能の時はそっちに行く。

—なるほど。それが明治になって突然放り出されてしまったら路頭に迷ってしまいますよね。よくその大変な時期を乗り越えて。

一噌 何で乗り越えられたかというと、岩倉具視等が欧米に派遣された時に、向こうでオペラや何かを見て、「日本にもこういう文化があるじゃないか」と能に力を入れ始めたからです。文化は国が生まれた背景もわかります。国そのものでもあると思いますね。

芸も道具も、守り、残していくのは大変なこと。

—一噌宗家の跡を継がれる方はいらっしゃるのですか。

一噌 はい。息子はもう50で、僕より忙しいです(笑)。

—お孫さんは?

一噌 やっています。今、10歳くらいかな。

—お稽古をつけていらっしゃるのですか。

一噌 つけません、僕は。

—なぜ?

一噌 何でもそうですけどね、稽古をつけた人の癖がつくから。癖っていうのは得てして悪い癖がつくんですよ。よく出るのは、姿勢です。子どものうちからこんなになっちゃったらまずいでしょう(笑)。

—なるほど。で、おじいさまは口を出さずにじっと見ている。

一噌 「良くできた」と言う(笑)。

—いいとこ取りですね(笑)。

一噌 嫌われちゃうのがいちばん怖いから(笑)。

—話は戻りますが、囃子方には笛、小鼓、大鼓、太鼓、の4つの楽器がありますが、笛というのはどういう役割なんでしょうか。

一噌 笛だけがメロディなんですね。他の楽器はみんなリズムですから、曲の雰囲気を出す、映画でいうと、曲を盛り上げる役割ですね。

—どういう時に笛を吹くとか、決まりはあるのですか。

一噌 だいたいパターンが決まっていますね。能には神・男・女・狂・鬼と、5つ曲目(五番立)があるんです。神(しん)は神様。男は修羅物、戦物。女は王朝文学の主役。狂は隅田川とかの狂人。鬼は大江山とか道成寺とかです。笛を聴かせるのは、僕ら三番目ものというんですけど、女物。それが腕の見せ所じゃないですかね。いかにして見ている人をその世界に引き込むかという。

—どういう雰囲気なのでしょう。

一噌 王朝文学に出てくる和泉式部とか紫式部とか小野小町とか、そういう人を主題にしたものですから、自ずとゆったりした優雅な笛になります。神、神様を扱ったものはさわやかさが大事です。ですから他の打楽器の方が効果がありますね。
(実際に笛を吹いて)何の音だと思います?

—何の音?

一噌 龍の鳴き声をイメージしていると言われています。雅楽に龍笛っていうのがありますね。龍笛は龍の鳴き声をもとに作ったと言われ、笛も龍の形をしているんです。能管は龍笛を改造したもので、見た目はほとんど変わりません。違いはね、龍笛は一本の竹ですが、能管は途中で折って、その間を管でつないでいるんです。ノドっていうんですけど、それによって能管の音になるんです。

—音が違うんですか。

一噌 違うんです、全く。でね、レントゲンを撮ると出るんです、ノドが。

 「一噌の十六管」といわれる名管があるんですが、現存しているのはほとんどなくて、うちには一本だけあるんですよ、足利将軍から拝領したというのが。笛にはだいたい銘があるんですが、どういうところから名前をつけるかというと、鳴る音に関係のあること。うちにあるのは小夜嵐(さよあらし)というんですが、今はもう吹けないです。

—どうして?

一噌 傷んでいるんですね。今の技術じゃ直せないんです。無理して直すよりはそのままで残そうと。技術が進歩して、いずれ直せる時代が来るかもしれませんからね。芸も道具も、守り、残していくということは大変なことです。

(インタビュー/津久井 美智江)

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